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聖のんだくれ伝 (その十四) [本棚]

聖のんだくれ伝
ヨーゼフ・ロート

その十四

 それは雨天の火曜の午後であり、雨はヴォイテクが次の瞬間に実際かき消されてしまうほどに濃密に降っていた。少なくともアンドレアスにはそう見えた。
 彼には友人が、ひょっくり眼の前に現われたのと軌を一にして、雨に消えて無くなったように思われ、そしてもうポケットに金が三十五フランしか無かったので、そのかたわら運命が自分を甘えさせてくれていると信じてもいれば、きっとまだまだ奇蹟が起こるはずだと確信してもいたので、あらゆる貧乏人と飲酒常習者がそうするとおり、ふたたび神に身をゆだねることに決めた。彼が信じている唯一のものに。かくて彼はセーヌへ行って宿無したちの安息の地に通ずるいつもの階段を降りた。
 そこで彼は丁度階段をのぼろうとしているところだったひとりの男に出くわしたが、その男を自分はよく知っているような気がした。それでアンドレアスは如才なく彼に挨拶した。それはやや年輩の洗練された容子の紳士であり、立ちどまってアンドレアスをしけじけと眺め、その果てに問うた。「お金が入り用ですかな、あなた。」
 その声でアンドレアスは覚った。三週間前に会ったあの紳士だと。かくて彼は云った。「ちゃんとおぼえているよ。あんたに金を借りていること。それを聖テレーズのところに戻すはずだった。でも、わかってもらいたいんだが、色々とあって。もう三度も金を返しそびれちまったんだ。」
 「思い違いでしょう」と年輩の小綺麗な身なりの紳士は云った。「失礼ながら私はあなたを存じません。人違いですが、しかし、どうやらあなたはお困りらしい。ついては、いま聖テレーズにお話が及びましたが、私は人として是非とも彼女に報謝せねばならず、したがってあなたが彼女に借りているお金を立て替えるのは私にはむしろ当然のことなのです。いかほどになりますか。」
 「二百フラン」とアンドレアスが返した。「でも、わるいが、あんたは俺を知らないじゃないか。俺は立派な男だが、たぶんあんたは俺に催促できない。だって立派ではあっても俺には住所が無いんだから。俺はここの橋の下で寝てるんだ。」
 「そんなことは何でもありません」と紳士は云った。「私もまたここで寝るのを常としています。それにお金を受け取ってくださったならば、私には感謝しきれないほどの好意をあなたは示してくださったことになるのです。私もまた小さなテレーズにたいへんな借りがあるのですから。」
 「なるほど」とアンドレアスは云った。「それならおおせにしたがおう。」
 彼は金を受け取って、紳士が段々を悠然とのぼりきるまでしばしのあいだ待って、それから自身同じ段々をのぼってまっすぐにカトル・ヴァン通りへ行き、かねて馴染みのレストランに、ロシア・アルメニア風のタリ・バリに入り、かくて土曜の宵までそこに留まった。そしてそのときに至って彼は憶い出した。明日が日曜であること、それにサント・マリー・デ・バティニョールの礼拝堂に行かねばならないことを。
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聖のんだくれ伝 (その十三) [本棚]

聖のんだくれ伝
ヨーゼフ・ロート

その十三

 さて、摂理に遵って――あるいは、信仰のうすい人々ならばこう云うところだろうが、偶然にも――アンドレアスはまたしても十時のミサの終了直後に到着することとあいなった。そしてもとより知れたことながら、彼は教会の近くに前回そこで飲んだビストロを見いだして、やはりまたそこに入った。
 そんな訳で彼は飲むべく註文した。だが彼は用心深かったので、それにこの世界のあらゆる貧乏人は仮令奇蹟に次ぐ奇蹟を経験していたにしてもそういうものなので、まずは自分が本当に金を足りるだけもっているのかどうかたしかめ、さらに札入れを引っぱり出した。そして九百八十フランがもうたいして残っていないらしいのに気付いた。
 それは二百五十フランしか残っていないのだった。彼はよくよく考えて覚った。かの美しい娘がホテルで金を抜き取ったのだと。だが我らがアンドレアスはそれをものともしなかった。彼はひとりごちた。どんな愉しみにだって金を払わねばならないのであり、そして自分は愉しみをもらったのだから、やはり支払わねばならないのだと。
 彼はそこで待つつもりだった。鐘が、すぐ傍の教会の鐘が鳴るまでのあいだ。ミサへ行ってそこで小さな聖女への責務をようやく果たすために。それまで彼は飲むつもりであり、かくて飲むべく註文した。彼は飲んだ。ミサをしらせる鐘がとどろきだして、彼は声をあげた。「ウエイター、勘定を。」払いを済ませて、立ちあがって、ドアから外へ出て、その途端にやけに大柄で肩幅の広い男とぶつかった。彼はすぐさまその名を呼んだ。「ヴォイテク。」相手も同時に声をあげた。「アンドレアス。」彼らは抱き合った。彼らはふたりとも嘗てケベックで炭鉱夫をしていたのだった。ふたりとも同じ炭坑で一緒に。
 「ここで待っててくれよ」とアンドレアスは云った。「ミサのあいだ、ほんの二十分。すぐだから。」
 「嫌なこった」とヴォイテクは云った。「いつからミサなんかに行くようになったんだ。俺は坊主は好きになれないし、坊主のところへ行くやつはなおさらだ。」
 「いや、小さなテレーズのところへ行くんだ」とアンドレアスは云った。「金を借りてるんだよ。」
 「小さな聖テレーズのことを云ってるのか」とヴォイテクが問うた。
 「そうだよ」とアンドレアスが返した。
 「いくら借りてるんだ」とヴォイテクが問うた。
 「二百フランだ」とアンドレアスは云った。
 「じゃあ附いて行こう」とヴォイテクが云った。
 鐘はまだとどろき続けていた。彼らは教会へ向かった。そしてその中に立ったとき、丁度ミサがはじまったところだったが、ヴォイテクがささやき声で云った。「いますぐ百フランくれ。あっちに俺を待ってる男がいるのをうっかり忘れてた。金が無きゃあ俺は刑務所行きだ。」
 アンドレアスは残っていた百フラン札を二枚とも即座に差し出して、云った。「あとからすぐ行くよ。」
 さて彼はテレーズに返すための金がもう無いのを悟って、このうえミサに居合わせるのは無意味だと考えた。単に律儀さからそのまま五分待って、それから彼はヴォイテクが待っている向かいのビストロへと赴いた。
 このときから彼らは互いに相棒となった。そう誓い合ったのだった。
 もちろんヴォイテクには金を返さねばならない友人など居なかった。アンドレアスが貸した百フラン札のうちの一枚を彼は念入りにハンカチーフに隠してその印に結び目をつくった。残りの百フランで彼はアンドレアスに一杯おごってはまた一杯おごりまた一杯おごり、さらに夜には彼らは好もしい娘たちの居る例の家へ行き、そして実にふたりともそこに足掛け三日留まり、かくてふたたび出て来たのは火曜のことであり、そしてヴォイテクはアンドレアスにこう告げて離れて行った。「日曜に会おう。同じ時間に同じ場処、同じ辺りで。」
 「じゃあな」とアンドレアスは云った。
 「じゃあな」とヴォイテクは云って消え去った。
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聖のんだくれ伝 (その十二) [本棚]

聖のんだくれ伝
ヨーゼフ・ロート

その十二

 土曜の朝、彼はこの美しい娘をその出立までもう放すまいという断固とした決心とともに目覚めた。それどころか彼の中には若い女とのカンヌへの旅の淡い想いが花開いてさえいた。彼は、あらゆる貧乏人と同様(そして殊にのんだくれの貧乏人にはその傾きがある訳だが)、ポケットにもっている少々の金額をとかく大仰に考え勝ちなのだった。かくてこの朝彼はその九百八十フランをいま一度数えなおした。そしてそれが札入れに収まっていて、さらにその札入れが新しいスーツに差し込んであるものだから、彼はその金額を十倍ほども仰山に考えた。それで、美しい娘から離れて一時間後、彼女がドアをノックもせずに入って来たときにも、彼は悠揚としてせまらなかった。そして彼女が、カンヌへの出立前、この土曜をふたりはどう過ごすべきかと問うたので、彼は出任せに云った。「フォンテーヌブロー。」何処かで、夢うつつで、彼はそれを耳にしたことがあったのかも知れない。ともあれ何故いかにしてその地名が舌にのぼったのか彼にはもはやわからなかった。
 かくて彼らはタクシーを雇ってフォンテーヌブローへと向かった。そしてそこで明らかとなったのだが、かの美しい娘は上等の食べものが食べられて上等の飲みものが飲める上等のレストランを知っているのだった。しかも彼女はそこのウエイターとも知り合いであり、そして彼をファーストネームで呼ぶのだった。さて我らがアンドレアスが嫉妬深く生まれついていたならば、さぞや腹を立てたことだろう。だが彼は嫉妬深くはなかったため、はたして腹を立てなかった。彼らは食べて飲んでひとときを過ごして、それからふたたびタクシーでパリへと引き返した。そしてきらめくパリの宵がだしぬけに前方に展開したとき、彼らにはそのもとですることがひとつとして思い当たらなかった。さながら互いに何の用も無くただ偶然に出くわしただけの者たちが途方に暮れるごとく。夜はあまりに明るすぎる沙漠も同然に彼らの前にひらけていた。
 さて、男と女に授けられている根源的な経験を軽薄に浪費したあと、彼らには一緒に何をしたものやらもはやわからなかった。そこで彼らは映画館へ行くことにした。何をしたものやらわからなくなったときさしあたり我々の時代の人々に残されている途だ。かくて彼らはそこに腰を落ち着けたが、それは暗闇ではなく、暗がりですらなく、かろうじて薄暗がりとでも呼び得る処だった。さて、彼らは、かの娘と我らがアンドレアスは手を握り合った。しかしながら彼の手の握りはなおざりであり、そして彼自身それを気に病んだ。彼自らが。それから休憩となったとき、彼は美しい娘とともにロビーへ行って飲むことに決め、そしてそのとおり彼らはふたりして席を離れて飲んだ。さて、映画はもはや彼らの興味を些かも惹かなかった。彼らはかなりの重苦しさのうちにホテルに向かった。
 次の朝、それは日曜だった訳だが、アンドレアスは金を返さねばならないという責務の自覚とともに目覚めた。彼は前日よりも迅速に立ちあがったが、あまりに迅速だったせいで美しい娘が驚いて眠りから覚め、そして訊ねた。「どうしてそんなに急いでるの、アンドレアス。」
 「借金を返さなきゃならないんだ」とアンドレアスは云った。
 「どうして。今日、日曜に」と美しい娘は訊ねた。
 「そう、今日、日曜に」とアンドレアスは返した。
 「女、それとも男、あなたがお金を借りてるのは。」
 「女」とアンドレアスはためらいながら云った。
 「何て名前。」
 「テレーズ。」
 それで美しい娘はベッドから飛び起きて両の拳を固めて実際アンドレアスの顔を叩いた。
 さてそれで彼は部屋から逃げ出し、そしてホテルをあとにした。そしてもう振り返ること無くサント・マリー・デ・バティニョールの方角へと彼は去って行った。今日ついに小さなテレーズに二百フランを返済することを得るのだというたしかな自覚とともに。
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聖のんだくれ伝 (その十一) [本棚]

聖のんだくれ伝
ヨーゼフ・ロート

その十一

 彼はふたたび部屋に戻り、待ち、聞耳を立て、そしてもう決心していた。朝が来るのなど待たずにさっさとあの美しい娘と近づきになることを。何となれば、このところのほとんど間断無い一連の奇蹟によって、彼は恩寵が自分の上に止まっていると既に信じていたのだが、しかし、まさにそれが故に、或る種の我儘への権利を授かっているものと思い込み、そして、恩寵にさらに先んずるのが或る意味で礼儀に適った振舞なのであって、そのためにそれを損ねることなど些かも無いはずだと極込んでいたのだった。さて、そんな訳で、八十七号室の娘のかすかな足音が聞こえたように思ったとき、彼はドアを用心深く細めに開け、そして部屋に戻って来たのが実際に彼女であることを見てとった。ところで、いかにも長年の経験不足のせいで彼が気付かなかったのは、美しい娘もまた彼の覗き見に気付いていたという侮り得ない事態だった。それで彼女は、その生業と習慣のおしえに従い、慌しくも手早くも部屋の体裁をととのえて天井のランプを消してベッドに横になってナイトテーブルのランプの光のもとで一冊の本を手に取って読みだした。ただし、それはもう疾うに読んだことのある本だった。
 はたしてしばしののち、彼女がやはり予期していたとおり、ドアがおずおずとノックされ、そしてアンドレアスが入って来た。彼は次の瞬間にはもっと接近するよう誘いがかかるだろうという確信を既にもってはいたのだが、ともあれ戸口で立ちどまった。何となれば、愛らしい娘がその場から動かず、本を置きさえせず、ただこう訊ねたからだった。「あら、何か御用。」
 アンドレアスは入浴と石鹸と肘掛椅子と壁紙と鸚鵡の頭の模様とスーツとで自信がついていたので、こう返した。「明日まで待てないよ、お嬢さん。」娘は黙っていた。
 アンドレアスは彼女に歩み寄り、何を読んでいるのか訊ね、そして真率に云った。「俺は本は好かない。」
 「私はここにちょっとのあいだ泊まってるだけなのよ」と娘はベッドの上で云った。「日曜までしかここには居ないの。月曜にはまたカンヌに出なきゃいけなくて。」
 「て云うと」とアンドレアスが訊ねた。
 「カジノで踊ってるの。ギャビーって名前、一度も聞いたことないかしら。」
 「もちろん、新聞で知ってる」とアンドレアスは嘘をついた――そして「それにくるまってたんだ」と付け加えようとした。だがやめておいた。
 彼はベッドの端に坐ったが、美しい娘に異存は無かった。そればかりか彼女は本を置き、そしてアンドレアスは朝まで八十七号室に留まった。
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聖のんだくれ伝 (その十) [本棚]

聖のんだくれ伝
ヨーゼフ・ロート

その十

 いまやアンドレアスの塒たるそのホテルの部屋には八十九という番号が附いていた。この部屋にひとりきりになるや、アンドレアスは薔薇色の畝織で覆われた快適な肘掛椅子に坐ってあたりを見回しはじめた。まず赤い絹のような壁紙が眼にとまった。それは淡い金色の鸚鵡の頭の模様で区切られていた。それから壁面の象牙製のボタン三つに、入口の右脇、ベッドの傍のナイトテーブルにその上の暗緑色の笠のランプ、さらには白い取っ手のドア。その向こうには謎めいた何かが、余人はともあれアンドレアスにとっては謎めいたものが潜んでいるかに見えた。さらにベッドの傍には黒い電話が在った。ベッドに横たわっていても左手でいとも容易に受話器を取り得るような絶妙の塩梅で。
 ながながと部屋を眺め、せいぜいそれに馴染むべくこころがけたのち、アンドレアスは俄にうずうずしだした。白い取っ手のドアに刺戟されたからで、不安ながらも、それにホテルの部屋というものに不慣れではあったものの、彼は立ちあがり、そしてそのドアが何処に通じているのかたしかめることに決めた。当然鍵がかかっているものと彼は思っていた。しかるに、それが勝手に、さあどうぞとばかりに開いたのだから、彼の驚きの如何におおきかったことか。
 彼はいまや理解した。それが浴室であることを。ぴかぴかのタイルに仄かに輝いて白い浴槽、そしてトイレ。要するに共同便所のたぐい、彼の同類ならばそう云ったところかも知れない。
 このとき、はたして彼は体を洗いたいという欲求を覚えて、熱い湯と冷たい水をともどもコックから槽へと出しっぱなしにした。そしてそれに入るために服を脱いでみて、はたして彼はシャツをもっていないのを憾むこととあいなった。シャツを脱いでみて、それがひどく汚れているのを知ったからで、それにもともと彼は槽から出ればまたそのシャツを着るほかないことに予め不安を抱いていたのだった。
 彼は槽に入った。ながらく体を洗っていなかったことを思い知った。彼はほとんど歓喜をもって湯浴みし、立ちあがり、また服を着て、それからもはやどうしたものやら知らず身をもてあました。
 好奇心よりは詮方無さから彼は部屋のドアを開け廊下に歩み出て、同様に部屋から出て来たばかりの若い女をそこに見いだした。美しくて若い。彼には彼女がそう見えた。しかも、彼女は以前彼が札入れを買った店のあの女店員を憶わせた。そして少しばかりカロリーヌをも。それで彼は軽く礼をして挨拶をしたのだが、彼女が頷いて応じたものだから、思いきってずばりと云った。「綺麗だ。」
 「あなただって素的よ」と彼女が応じた。「待って。明日会いましょう。」――そして彼女は廊下の暗闇の中に歩み去った。一方彼は俄に愛の渇きを覚え、彼女が泊まっている部屋のドアの番号をたしかめた。
 それは八十七号だった。彼はそれを心に刻みつけた。
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聖のんだくれ伝 (その九) [本棚]

聖のんだくれ伝
ヨーゼフ・ロート

その九

 その部屋は六階に在って、アンドレアスとフットボール選手はエレヴェーターを使わねばならなかった。アンドレアスはもちろん手荷物ひとつもっていなかった。ところがドアマンもエレヴェーターボーイもさらにはホテルの使用人たちの誰もそれを不思議がりはしなかった。何となれば単純にそれが奇蹟だったからで、奇蹟の内側には何の不思議も無いのだ。ふたりで上の部屋に立ったとき、フットボール選手カニャクは学校友達のアンドレアスに云った。「石鹸が要るんじゃないか。」
 「俺たちみたいな者は石鹸無しだってやっていけるんだよ」とアンドレアスが返した。「俺はここに一週間石鹸無しで居るつもりだ。体は洗うけどな。それよりこの部屋の栄光のためにさっそくなにか飲むものをたのもうってもんだ。」
 そこでフットボール選手がコニャクを一瓶註文した。それを彼らは空になるまで飲んだ。それから部屋を出てタクシーをつかまえてモンマルトルに乗り付けた。それも娘たちの居る、アンドレアスがほんの数日前に入った例のカフェに。そこに二時間居坐って学校時代の憶い出をあれこれ語り合ってから、フットボール選手はアンドレアスを家に、つまり彼が借りてやったホテルの部屋に連れて行き、そして云った。「もう遅い。俺は行くよ。明日スーツを二着送るから。それと――金は要るか。」
 「いや」とアンドレアスは云った。「九百八十フランもってる。まんざらじゃないよ。さあ帰った帰った。」
 「二、三日したら来るよ」と友人が、フットボール選手が云った。
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聖のんだくれ伝 (その八) [本棚]

聖のんだくれ伝
ヨーゼフ・ロート

その八

 ところが映画館を出る前に彼は思い当たった。自分の友人にして学校仲間の住所を明日の朝まで待つことなど全然無いと。とりわけポケットに入れてあるかなりの金額を考えれば。
 残っている金を考えるに付け、もう大胆になっていたため、彼は入場券売場で友人の住所を照会することに決めた。高名なフットボール選手カニャクの。きっと支配人に個人的に尋ねることになるのだろうと彼は思っていた。だが違った。フットボール選手カニャクほどパリ中に知られている者が他に居ようか。映画館の玄関番にしてからが彼の住所を知っていた。彼はシャンゼリゼのとあるホテルを住処にしていた。玄関番はホテルの名まで告げたので、我らがアンドレアスはさっそくそこへと向かった。
 それは上品でこぢんまりとしていて静かなホテルで、まさにフットボール選手やボクサーといった我々の時代のエリートたちが好んで住処にするホテルのうちのひとつだった。アンドレアスには玄関ホールで自らが何やら場違いに感じられたが、ホテルの従業員たちにもまた彼は何やら場違いに感じられた。それでも彼らは云った。高名なフットボール選手カニャクは在宅であり、いつでも玄関ホールに出て来れるはずだと。
 はたして二、三分後に彼が降りて来て、両者はただちに互いを認識した。そして彼らはなお立ったまま古い学校時代の憶い出を語り合い、それから一緒に食事に出かけたが、ふたりのあいだにはたいへんな陽気さが漲っていた。彼らは一緒に食事に出かけたが、さればこそそれは高名なフットボール選手が落魄した友人に次のごとく問うという事態を招来した。
 「どうしてそんなにおちぶれた姿をしてるんだ。なんて襤褸を纏ってるんだよ。」
 「なんでこうなったか語った日にはひどいことになる」とアンドレアスは応じた。「それに俺たちの運のいい巡り会いのめでたさまでだいなしになっちまう。無駄口はたたかないに越したことはないよ。なにか明るいはなしをしよう。」
 「俺はスーツをごまんともってる」と高名なフットボール選手カニャクは云った。「どれやら喜んでおまえに譲ろう。俺たちは学校で隣どうしだったんだし、それにおまえは答案を写させてくれた。スーツ一着俺にはなんでもないよ。何処に送ればいい。」
 「それは無理だ」とアンドレアスが応じた。「いや、ただ単に俺には住所がないからさ。かなり前からセーヌの橋の下で暮らしてるんだ。」
 「じゃあ俺が部屋を借りてやろう」とフットボール選手カニャクは云った。「ただ単におまえにスーツをプレゼントできるようにするためにさ。行こう。」
 食事を終えてから、彼らは部屋を借りに行った。そうしてフットボール選手カニャクが借りたその部屋は一日二十五フランであり、「マドレーヌ」の名で通っているパリきっての立派な教会堂の近くに位置していた。
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