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聖のんだくれ伝 (その七) [本棚]

聖のんだくれ伝
ヨーゼフ・ロート

その七

 そうしてカウンター際に立っているうちに、亭主のがっしりした背中の後方の壁に掛かっている額縁に入れられたデッサンに彼は眼を惹かれた。そしてそのデッサンは彼にオルショヴィツェの昔の学校仲間のひとりを憶い出させた。彼は亭主に訊いた。「誰だいこれは。俺はこいつを知ってるような気がするんだが。」これに亭主もカウンター際に立っている客一同も大爆笑した。そして彼らは皆声をあげた。「なんだって、やつを知らないって。」
 実際それはシュレージエン出身の大物フットボール選手カニャクであり、普通の人なら誰でも彼を知っているのだった。だがセーヌの橋々の下で寝ているアルコール常飲者に彼を知る由があろうか。例えば我らがアンドレアスが如何にして。ともあれ、恥ずかしかったため、そしてとりわけ千フラン札を崩したばかりだったが故に、アンドレアスは云った。「もちろん知ってるさ。それどころかこれは俺の友達だ。何にしてもこのデッサンは俺には描きそこないに見えるよ。」そのうえで、そしてそれ以上何か訊かれたりしないように、彼はさっさと払いを済ませて去った。
 そうこうするうちに彼は空腹を覚えた。そこで最寄りの料理屋に入って食べかつ赤ワインを一杯飲んでチーズのあとにコーヒーを飲んだ。そして午後は映画館で過ごすことに決めた。もっとも、さしあたって何れのという心積もりは無かった。そこで彼は、路上を自分の方に向かって来るであろう裕福な男たちの誰にも劣らないくらいの金を目下のところはもっていることを自覚しつつ、グラン・ブールヴァールへと赴いた。オペラ座とカピュシーヌ大通りのあいだで彼は自らの好みによく合いそうな映画を探して、やっとひとつ見つけた。その映画を予告するポスターはどうやら遥かな冒険に没しようとしているらしいひとりの男を描き出しているのだった。彼は、そのポスターによれば、太陽に灼かれた非情の沙漠をのろのろとさまよい歩くのだ。それでアンドレアスはその映画館に入った。彼はその太陽に灼かれた沙漠をさまよい行く男の映画を見た。ところが、アンドレアスがその映画の主人公に共感し自分に似ていると感じかけた途端、一篇は急に予期せぬ幸運な転回を遂げて、沙漠の男は通りかかった学術キャラバンに救われヨーロッパ文明のふところへと連れ戻されることになるのだった。それからアンドレアスはその映画の主人公への共感をすっかり失った。そして立ちあがりかけた途端、さきほど、カウンター際に立ちながら、タヴェルヌの亭主の背後にそのデッサンを見た当の学校仲間の像がスクリーンに出現した。それは大物フットボール選手カニャクだった。それからアンドレアスは嘗て、二十年前、カニャクと学校で隣り合わせだったことがあるのを憶い出し、そして明日さっそくその昔の学校友達がパリに居るかどうか照会することに決めた。
 なにせ彼は、我らがアンドレアスは九百八十フランからをポケットにもっているのだったから。
 そしてこれはまんざらでない。
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聖のんだくれ伝 (その六) [本棚]

聖のんだくれ伝
ヨーゼフ・ロート

その六

 それから、なかばずたずたになった旅券をテーブルの上にひろげているうちに、彼は憶い出した。或る日、もうずっと何年も前に、彼はここに来たのだった。フランスで炭鉱夫を求めているという告知が新聞にあったが故に。それに彼はものごころついて以来遠い国に憧れていたのだった。そして彼はケベックの炭坑ではたらいたのだが、同郷のシェビエツ夫妻のところに宿を宛がわれていた。そして彼は夫人を愛した。ところが或る日夫君が彼女を殺気立って殴ろうとしたので、彼が、アンドレアスが夫君を殴り殺した。それで刑務所に二年食らい込んだ。
 その夫人こそがカロリーヌだった。
 これだけのことをアンドレアスは既に無効になった旅券に眺めいっているあいだに憶った。それからぺルノーをもう一杯註文した。とにかく遣る瀬無かったのだ。
 ようやく立ちあがったとき、彼は餓えを感じた。ただしもっぱらのんだくれだけが襲われ得るたぐいの。それは特殊な(食べものへのではない)渇望であり、ほんの僅かのあいだだけ続いて、その時々に応じてちょうどよさそうなドリンクが思い浮かべば、たちまち鎮まるたぐいのものだった。
 アンドレアスはもうながいこと自分が姓ではどう呼ばれるのか忘れていた。だが、無効になった旅券をたったいまもう一度見て、カルタクだと憶い出した。アンドレアス・カルタク。そしてそれは彼にとって長年ののちにやっと自分自身を再発見したごとくだった。
 ともあれ彼にはどうも恨めしかった。新たな金を稼ぐのを可能にしてくれる、太って口髭をたくわえた童顔の男をこのカフェにふたたびこの前のようには遣さなかった運命というやつが。人は何にもまして奇蹟にいとも簡単に慣れるものなのだ。自らの身の上にそれが二度、三度と続けて生じたとなれば。いや、人の本性というのは、それどころか、たまさかの通りすがりの命運が彼に約束したかに見えるすべてが絶え間なく与えられないと、腹を立てさえするたぐいのものなのだ。人とはそういうものだ――そして我々はそれ以外の何をアンドレアスに期待しようというのか。かくてその日の残りを彼は他にいくつかタヴェルヌをまわって過ごした。そうして彼は既に甘んじていた。自分が体験した奇蹟の時間は過ぎ去ったのだということに。それは決定的に過ぎ去ったのであり、そして旧来の時間がいままたはじまったのだということに。そしてのんだくれがいつも覚悟しているあの緩慢な滅亡――素面の者はそれを決して経験することなど無かろうが――の途につく決心で、アンドレアスはふたたびセーヌの橋々の下の河岸へと赴いた。
 そこで彼は、ここ一年来の習慣通り、昼夜半々に眠った。おりおり運命の同志の誰彼に火酒のボトルを借りたりしつつ――木曜から金曜にかけての夜に至るまで。
 その夜彼は夢を見た。小さなテレーズがブロンドのカールした髪の少女の姿で彼のところにやって来て云うのだった。「どうしてあなたはこの前の日曜私のもとに現われなかったの。」ところがその小さな聖女はもうずっと何年も前に思い描いたことのある彼自身の娘そっくりに見えた。しかも彼には娘などいないのだった。ともあれ夢の中で彼は小さなテレーズに云った。「なんて口のききかたをするんだ。俺がおまえの父親だということを忘れたのか。」小さな彼女は応じた。「許して、おとうさん。でも明後日、日曜にはサント・マリー・デ・バティニョールの私のところにどうか来てくださいね。」
 この夢を見た夜のあと、彼はさわやかな気分で立ちあがった。奇蹟が起こっていた一週間前と同様にだ。あたかもその夢を本当の奇蹟と受け取ってでもいるかのごとく。またしても彼は河で体を洗おうと思った。だがそのために上着を脱ぐ前に左の胸ポケットに手を突っ込んだ。ひょっとして心当たりのまるで無い金がさらにいくらかそこに在るかも知れないというとりとめのない望みをもって。彼は上着の左の胸の内ポケットに手を突っ込んだのだが、その手がそこに探り当てたのは、しかし、紙幣ではなくて、数日前に買った革製の札入れだった。彼はそれを引っぱり出した。それはひどく安ものの、既に使い古され、引き換えに出された、別様には予期し得ないような札入れだった。床革。牛革。彼はそれをつくづく眺めた。いつ何処でそれを買ったのかもはやおぼえていなかったが故に。これはどうして俺のところにやって来たのかと彼は自らに問うた。結局彼はそいつを開き、そしてそれがふたつに仕切られているのを見いだした。うずうずして両方覗いてみると、片方に紙幣が一枚在った。そこで引っぱり出すと、それは千フラン札だった。
 それから彼は千フランをズボンのポケットに捩じ込んでセーヌの岸辺へ行き、そして災禍の同志たちを気にすることなく、顔ばかりか頸まで洗った。しかもほとんど上機嫌で。そのうえで彼は上着をまた身につけ、そしてこの一日へと入って行った。そして彼はこの一日を紙巻煙草を買いにタバへ入ることからはじめた。
 さて、紙巻煙草代に足る小銭はもっていたが、一方、かくも奇蹟的に札入れの中に見つけた千フラン札をどんな機会に崩せばいいものやら彼にはわからなかった。何となれば、世間の、つまり標準的世間の眼からすれば、自分の服装、外見と千フランの札一枚のあいだにはゆゆしい齟齬が在ることをうすうす感じるだけの世間的経験を彼は既に積んでいたので。それでも更新された奇蹟のおかげで大胆になっていた彼はとにかくその銀行券を出して見せることに決めた。ただし、いまだ滞っていた抜け目なさの残滓をかろうじてふるって、タバの売場の親仁にこう云いつつ。「すまないが、千フランを崩してもらう訳にはいかないかな。いや、小銭ももってはいるんだ。でも崩せればうれしいんだが。」
 アンドレアスには思いがけなくも、タバの親仁は云った。「それどころか、ちょうど千フラン札が入り用でして。いいときに来てくれました。」そして主人は千フラン札を崩してくれた。そのあとアンドレアスはしばしカウンター際に突っ立ち、そして白ワインを三杯飲んだ。いくらかは運命に対する感謝の気もちから。
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聖のんだくれ伝 (その五) [本棚]

聖のんだくれ伝
ヨーゼフ・ロート

その五

 やけに早くその朝彼は目覚めた。カロリーヌはまだ眠っていた。一羽きりの鳥が開いた窓の前で囀っていた。しばし彼は眼を開いたまま横たわっていた。せいぜい二、三分。その短い時間に彼はとくと考えた。このたった一週間ほどに多くの注目すべき出来事が自らの身の上に生じたことは久しく無かったように思われた。突如彼は顔を振り向け、そして右側にカロリーヌを見いだした。昨日邂逅の際には眼に入らなかった点に、いまや彼は気付いた。彼女は年をとっていたのだった。生気なく、むくみ、大儀そうに息をして彼女は眠っていた。朽ちゆきつつある女の朝の眠りを。彼は自身の傍らを通り過ぎて行った時代の変遷を思い知った。それにまた自分自身の変遷を思い知り、そして決心した。ただちに起きあがって、カロリーヌを目覚めさせることなく、ふたりが、カロリーヌと彼が昨日出会ったのと同様に、たまさかに、というか、運命的に立ち去ることを。そっと服を着て、彼はそこから新たな一日へと入って行った。いつも通りの彼の新たな一日へと。
 その実、いつもとは違う一日へと。何となれば、ついこのところ稼ぐなり何なりした金をしまいつけている左の内ポケットに手を突っ込んだとき、もはや五十フラン札一枚しか残っていないことに彼は気付いたのだった。それに加えて少々の小銭。そしてここにきて彼は驚いた。いつもポケットに金があることに慣れている者が、突如窮地に陥り、ごく僅かしかそこに無いのを覚って、たいてい驚くごとく。もう長年金の意義を知らず、しかもその意義をもはや気にかけてもいなかった彼がだ。白々明けの寂寞たる路地の真ん中で、突如彼は感じた。不意に貧乏になってしまったと。ここ幾日かもっていたほど多くはもはやポケットに札を感得できないが故に。数えきれぬほど幾月も前から文無しだったこの男がだ。彼には文無しの時代がずっとずっと遠く後方にあるように思われた。そして自分に相応の生活水準を支えるはずのまさにその金額を傲岸かつまた軽率にもカロリーヌのために遣いはたしてしまったように。
 そんな訳で彼はカロリーヌに腹を立てた。そして突如彼は金の値打ちを重視しはじめた。金の所有に一度たりとも重きを置いたことなどなかった彼がだ。こんな値打ちのある男には五十フラン札一枚の所有など笑止だと突如彼は覚った。そして、自らの人格の値打ちを自分自身に明らかにするためにも、ここは何はともあれ冷静になってぺルノーを一杯やりつつ自分自身についてとくと考えることが是非とも必要だと。
 そこで彼は近くの飲食店のうちで一番よさそうなところを選んで、そこに腰を落ち着け、そしてぺルノーを註文した。それを飲んでいるあいだに、実は滞在許可無しにパリに暮らしていることを憶い出して、旅券をたしかめた。そうして本来ならば追放されていることを覚った。彼はオルショヴィツェの、ポーランド領シュレージエンの出であり、炭鉱夫としてフランスに来たのだった。
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聖のんだくれ伝 (その四) [本棚]

聖のんだくれ伝
ヨーゼフ・ロート

その四

 かくて次の朝彼は家具の荷造運送人たちよりもずっと早く現われた。ところが一家の主婦は、帽子と手袋を着け、あたかも寝床になど一切就かなかったかのごとき装いで、前日と同様に既にそこに居り、そして彼に愛想よく云った。「昨日は私の注意をきいて本当にお金を全部は飲んでしまわなかったみたいね。」
 ともあれアンドレアスは仕事にとりかかった。そして彼はさらに夫人に附いて彼女らの引越し先の新しい家へ行って、あの愛想のいい太った男が来るまで待った。そして約束の報酬を受け取った。
 「まあ一献進ぜよう」と太った紳士は云った。「一緒に来ておくれ。」
 しかしながら一家の主婦がそれを阻止した。彼女は両者のあいだに歩み入って、夫の行く手をまともに遮り、そして云ったのだった。「すぐ食事にします。」そんな訳でアンドレアスはひとりで立ち去って、この宵ひとりで飲んでひとりで食べて、そしてさらにタヴェルヌを二軒まわって、カウンターで飲んだ。彼はおおいに飲んだが、しかし、酔っぱらわなかったし、それに金を遣い過ぎないよう気をつけていた。約束を忘れずに、明日サント・マリー・デ・バティニョールの礼拝堂へ行って、せめて債務の一部なりとも小さな聖テレーズに果たすつもりだったのだ。とはいえ彼はやはりおおいに飲んだ。まったくたしかな眼力ともっぱら貧乏のたまものたる本能とを以て界隈で一番安いホテルを見つけること、まさしくそれがもはや叶わなくなるまでに。
 そんな訳で彼はやや高めのホテルを見つけ、そしてここでもまた前払いした。擦り切れた服で手荷物ひとつもっていなかったが故に。だが彼はそれを一切ものともせず、そしてやすらかに眠った。それも昼まで。彼は近くの教会の鐘のとどろきで目覚め、そしてただちに悟った。今日は大事な日、そうだ、日曜なのだと。小さな聖テレーズのもとへ借りを返しに行かねばならないのだと。そこで彼は大慌てに服を着込んでかの礼拝堂の在る広場へと足早に赴いた。だが、それでもやはり十時のミサには時宜を得ず、彼が到着したときには人々が教会から彼とはあべこべにどっと流れ出ていた。次のミサは何時にはじまるのか訊ねたところ、十二時におこなわれるということだった。彼は少しばかり当惑して礼拝堂の入り口の前に佇んだ。まだ一時間あったが、彼にはそれを路上で過ごすつもりなどもうとう無かった。そこで彼は待つのにもってこいの場をもとめ辺りを見回し、そして礼拝堂の右斜向かいに一軒のビストロを見いだした。それで彼はそこへ行き、そして余った一時間を待ち通すことに決めた。
 彼は自らのポケットに金が在ることを知っている者の鷹揚さを以てぺルノーを註文し、そしてまた自らの生活において既におおいに飲んできた者の鷹揚さを以てそれを飲んだ。彼はさらに二杯目三杯目と飲んだが、その都度グラスに注ぎ足す水を減らした。そして四杯目が来るに至っては、自分が二杯飲んだのかそれとも五杯なのか六杯なのか彼にはもはやわからなかった。しかも何故この場処にそしてこのカフェに来て居るのかさえもはやおぼえていなかった。ただここで何か義務に、面目にかかわる義務に服さねばならないことだけはかろうじてわかった。そこで彼は払いを済ませて、立ちあがって、それでもまだたしかな足取りでドアから外へ出て、斜め左向かいに礼拝堂を見いだし、そしてその一方でただちに自分が何処に何故に何のために居るのかを悟った。ちょうど礼拝堂の方向へ一歩踏み出そうとしたとき、彼は不意に自分の名前が呼ばれるのを聞いた。「アンドレアス」と声がした。女の声が。それは埋もれた時代から響いて来た。彼は静止し、それから頭を右に廻らせた。声がした方へと。そして彼はただちに認識した。そのために嘗て監獄に食らい込んだあの顔を。それはカロリーヌだった。
 カロリーヌ。いかにも彼にはとんと見覚えの無い帽子と服をその身に着けてはいたものの、しかしながらそれはやはり彼女の顔だった。されば彼女がたちまちひろげた両腕にくづおれるのを彼は躊躇しなかった。「すごい巡りあわせ」と彼女は云った。そしてそれは紛れもなく彼女の声、カロリーヌの声だった。「あなたひとりなの」と彼女は問うた。
 「うん」と彼は云った。「俺ひとりだ。」
 「来て。じっくりおはなししましょ」と彼女は云った。
 「いや、でも」と彼が返した。「俺は約束があるんだ。」
 「女と」と彼女は問うた。
 「うん」と彼はおそるおそる云った。
 「誰と。」
 「小さなテレーズと」と彼は応じた。
 「そんなひとどうでもいいでしょ」とカロリーヌは云った。
 そのとき一台のタクシーが通り過ぎようとして、それを彼女が雨傘で止めた。そしてはや彼女は何処やらの住所を運転手に告げており、そして気がつけばアンドレアスは車中にカロリーヌと並んで坐っており、そしてはや彼らは走っていた。アンドレアスの感じでは、はや暴走していた。知った道も通れば知らぬ道も通り、げに何れの地へやら。
 さて、彼らは郊外の一劃にやって来た。浅緑の、早春の緑の景色の中に彼らは停止した。それは庭園で、そのまばらな木々の向こうに閑静なレストランが隠れていた。
 カロリーヌが真っ先に降りた。彼にとっては慣れっこのせわしなさで、彼の膝をかすめて、彼女が真っ先に降りた。彼女が払いを済ませて、彼は彼女について行った。そして彼らはレストランへ入って、緑のプラッシュの長椅子に並んで腰掛けた。刑務所行き以前の昔の若い頃と同様に。例によって彼女が食事を註文した。そして彼女は彼を眺めたが、一方彼は彼女を敢えて眺めることを得なかった。
 「ずっと何処に居たの」と彼女が問うた。
 「何処にも」と彼は云った。「二日前からやっとまたはたらいてるんだ。会わなくなってからずっと、俺は飲んでた。それで橋の下で寝てた。俺みたいなやつらみんなと同じに。ところでおまえはどうやらましな暮らしをしてきたみたいだな。――男どもと」と彼はやや間をおいて付け加えた。
 「あなたはどうなの」と彼女は問うた。「大酒飲んで無職で橋の下で寝てたって、そのあいだにテレーズとかと知り合う時間とチャンスはちゃんとあったんでしょ。それに私が来なかったら、きっと、彼女のところへ本当に行ってたんでしょ。」
 アンドレアスは応じなかった。彼は黙っていた。ふたりとも肉料理を食べおえてチーズが来て果物が来るまで。そしてグラスから最後のひとくちのワインを飲みおえるや、彼は、昔々、カロリーヌと一緒に暮らしていた頃に、かなり頻繁に覚えたことのある不意のおののきにあらためておそわれた。そしてまたぞろ彼女から逃れたくなって、声をあげた。「ウエイター、勘定を。」ところが彼女が割り込んだ。「それは私が。ウエイター。」当のウエイターは経験に富んだ眼をもつ大人であり、云った。「殿方が一番にお呼びでした。」そんな訳で、払ったのははたしてアンドレアスだった。その折に彼は上着の左の内ポケットから有り金全部を取り出した。そして払いを済ませたのちに、若干の、ただしワインの摂取によってやわらげられたおののきとともに気付いた。小さな聖女に借りている額全部ほどは自分はもはやもっていないことを。だが、と彼は内心ひとりごちた。このところ俺には奇蹟がいくつも立て続けに起こっているのだから、まあきっと来週にはどうにか然るべき金を調達し返済することになるだろう。
 「あなたお金持ちなのね」とカロリーヌが路上で云った。「そっちの小さなテレーズにしっかり面倒みてもらってるんだ。」
 彼は何も云い返さず、それ故彼女は自分が当を得ていると確信した。彼女は映画館へ連れて行けとせがんだ。そこで彼は彼女と一緒に映画館へ行った。久しぶりに彼は映画というものを見た。ところがあまりに久しぶりだったため、もはやそれをほとんど理解できず、そしてカロリーヌの肩で眠りこけた。そのあと彼らはアコーディオンが奏でられているダンスホールへ行ったが、最後に踊って以来あまりに久しぶりだったため、カロリーヌとともに試みたものの、彼にはもはやまともに踊ることがさっぱり叶わなかった。それで他の踊り手たちに彼女を攫われた。彼女はいまだになかなか活きがよくて好いたらしいのだった。彼はひとりテーブルを前にしてまたぺルノーを飲んだ。ことは彼にとって昔日と同様であり、あの頃もカロリーヌはやはり他の踊り手たちと踊って彼はひとりテーブルで飲んだものだった。結局彼はやはり不意に力尽くで彼女を踊り手たちのひとりの腕から引き離し、そして云った。「家へ帰るぞ。」襟首をひっ捕らえてもはや離さず、払いを済ませて彼女とともに家へ帰った。彼女はその近くに住んでいた。
 かくてすべては昔日と同様だった。刑務所行き以前のあの頃と。
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聖のんだくれ伝 (その三) [本棚]

聖のんだくれ伝
ヨーゼフ・ロート

その三

 次の朝アンドレアスはいつもよりも早く起きた。いつになくよく眠ったせいだった。彼はつくづく考えた末に、昨日奇蹟を経験したことを憶い出した。奇蹟を。そして、この暖かな一夜、新聞に覆われ、久しく無かったほどに、殊のほかよく眠ったという気もちがしたので、せっかくだから体を洗うことに決めた。彼はそれをもう幾月も、この寒い季節のあいだ、ずっとしたことがなかったのだった。だが、服を脱ぐ前に、彼は再度上着の左の内ポケットに手を突っ込んだ。記憶によれば、そこには手応えのある奇蹟の名残が存在するはずだった。さて、彼は少なくとも顔と頸くらいは洗おうと、セーヌ沿いの斜面でも殊にひと気の無い場処を探した。しかしながら、何処で洗ってもその姿を人に、彼の同類に他ならないみすぼらしい人々に(おちぶれた、と彼は我知らず俄に内心で彼らをそう称していたのだが、そんな者たちに)見物されかねないように思われて、結局はその企てを放棄し、そしてただ両手を水に浸すに甘んじた。そのうえで彼は上着をまた身につけ、そして左の内ポケットの中の札に再度手をやった。すっかり清められまったく一新されたような心地がした。
 彼は入って行った。遥か昔から徒らに費やすのが習いとなっている彼の日々のひとつたるこの一日へと。今日もまたいつものあの通りへと赴くことに心を決めて。ロシア・アルメニア風レストランのタリ・バリが在る処にして彼が日々の偶然に授かる僅かばかりの金を安もののドリンクにつぎ込む場、カトル・ヴァン通りへ。
 しかるに、最初に通りかかった新聞スタンドの前で、彼は立ちどまった。あれこれの週刊誌のイラストレーションに惹かれて、かててくわえて、今日はどういう日なのか、この日の日付は何なのか曜日は何なのか知りたいという好奇心に不意にとらわれて。そんな訳で彼は新聞を買って、今日が木曜と見てとり、そして自分が木曜に産み落とされたことを不意に憶い出し、そして、日付には眼もくれず、この木曜をまさに自分の誕生日と受けとることに決めた。そして既に無邪気な祝日のうれしさに捉えられていたので、彼は良き、いや、貴き諸々の決意に身をゆだねることをもはや一瞬たりとも躊躇しなかった。そして、タリ・バリではなくて、新聞片手に、もっとましなタヴェルヌに入ることを。そこでコーヒーを、もちろんラム入りのを喫しバターつきパンを食すために。
 そんな訳で、彼は自信をもって、ぼろぼろのいでたちにもかまわず、庶民的なビストロへ行き、テーブルについた。もう随分前からもっぱらカウンター際に立つのが、つまりはそれに凭れかかるのが習いとなっていた彼がだ。そんな訳で彼は腰をおろした。ところがその席の向かいには鏡が在って、いきおい彼は自らの顔面を観察しない訳にはいかず、そしていま新たに自分自身と知り合いになったかのような気分になった。もっとも、このとき彼は驚いていたのだが。またそれと同時に何故自分がここ何年かあれほど鏡を怖れてきたのか合点がいったのだった。自らの落魄を自らの眼で見るのは好もしいことではないのだ。それに、敢えてそれを眺めずに済む限り、ひとはそもそも顔面などもたないか、あるいはせいぜい落魄以前の頃に由来する昔ながらのものをもっているかのような、ほとんどそんな気でいるものなのだ。
 ところが、述べたとおり、いまや彼は驚いていた。とりわけ自らの人相を近辺に坐っている慇懃な男たちのそれと較べるにつけて。彼は一週間前にひげをあたってもらっていた。僅かの報酬で仲間のひげをあたるべくあちこちで手ぐすねひいている運命の同志連中のひとりに、まさにどうにかこうにかといった調子でやっつけてもらったのだった。いまや、だが、新しい暮らしをはじめると決めたからには、本当に、決定的にあたってもらうのが肝要だ。彼はまっとうな理容店へ行くことに決めた。まだ何か註文する前に。
 思い立つそばから実行で、彼は理容店へ行った。
 彼が件のタヴェルヌに戻ったときには、先ほど彼が占めていた席はふさがっており、したがって遠くからしか鏡の中の自身を見ることができなかった。だが、自分が変わったこと、若返って見端がよくなったことを認めるにはそれで十分こと足りた。それどころか、彼の顔面からは光輝が発しているかのようだった。服のぼろぼろさなどどうでもよくしてしまうほどの。見るからに擦り切れた胸当ても――縁の裂けた襟に巻かれた赤白縞の入ったネクタイも。
 そんな訳で彼は、我らがアンドレアスは腰をおろし、復活を自覚しつつ、嘗てもっていた、そしていま、懐かしい女ともだちのごとく、ふたたび戻って来たらしいあの確乎たる声で「café, arrosé rhum」と註文した。はたしてそれが運ばれて来た。しかも、彼の気もちによれば、普段ウエイターたちから威厳のある客に対して表されるあらゆる然るべき敬意とともに。これはことのほか我らがアンドレアスをいい気分にさせた。それは彼を一段と舞いあがらせた。そして彼にとってそれは今日がちょうど自分の誕生日だという自らの仮定を裏付けるものだった。
 この宿無し男の近くにひとりで坐っていた紳士が、かなりのあいだ彼を観察して、向きなおり、そして云った。「お金を稼ぐ気はないかな。うちで仕事をしてもらいたいんだよ。明日引越しをするもんでね。女房とそれから家具の荷造運送人たちを手伝ってやってもらいたいんだが。見たところあんたはだいぶ力持ちらしい。どうだろう。やってくれるかな。」
 「もちろんやろうじゃないか」とアンドレアスは応じた。
 「で、いくら出せばいいかな」と紳士が問うた。「明日と土曜と、二日の仕事で。云っておかなきゃいけないが、あたしはかなり大きな住まいをもっていて、しかももっと大きなのに移るんだよ。しかも家具がまたごまんとある。ところがあたし自身は自分の店に用があってね。」
 「なに、合点だ」と宿無し男は云った。
 「一杯どうかな」と紳士が問うた。
 そして彼はぺルノーをふたつ註文した。そこで彼らは、その紳士とアンドレアスはグラスを打ちあわせ、そしてさらに値段の相談をまとめた。二百フランとそれはあいなった。
 「もう一杯いこうか」と一杯目のぺルノーをあけてから紳士が問うた。
 「でも今度は俺が払おう」と宿無しのアンドレアスが云った。「あんたは俺のことを知らない。でも俺は立派な男なんだ。律儀なはたらきものさ。この手を見てくれ。」――そこで彼は両手を出して見せた。――「きたなくて、胼胝だらけ、でも律儀なはたらきものの手だ。」
 「うれしいね」と紳士は云った。彼は輝く眼に薔薇色の童顔をしていて、ちょうどその真ん中に黒いちょび髭をたくわえていた。だいたいにおいて、かなり人好きのする男であり、アンドレアスは彼がなかなかに気に入った。
 そんな訳で、彼らは一緒に飲み、そして二杯目はアンドレアスが勘定をもった。そして童顔の紳士が立ちあがったとき、アンドレアスは彼がたいそう太っているのに気付いた。彼は札入れから名刺を引き抜いてそこに住所を書いた。そしてそのあと同じ札入れからさらに百フラン札を引き抜いて、ともどもにアンドレアスに手渡して、それに加えて云った。「これで明日きっと来てくれよ。明日の朝八時。忘れずに。それで残りが手に入る。そして仕事のあとはまた一緒にアペリティフを飲もう。それじゃあ。頼んだよ。」――そうして彼は、太った童顔の紳士は立ち去ったが、アンドレアスを何より不思議な気分にさせたのはその太った男が金と同じ札入れから住所を引き抜いたことなのだった。
 さて、金をもっていてまだもっと稼ぐあてがあるものだから、彼は自分も札入れを調達することに決めた。その目的で彼は革製品の店を探しに出た。最初に行き当たった店の中に、若い女店員が立っていた。彼には彼女がとても愛らしく見えた。タイトな黒い服に白い小さな胸当て、カールした髪、右手首には重みのあるゴールドのブレスレットといった姿でカウンターの向こうに立っている彼女が。彼は彼女の前で帽子を取り、そして朗らかに云った。「札入れをさがしているんだが。」その娘は彼のひどいいでたちにちらりと眼をやったが、しかし、この一瞥になんら悪意は無くて、彼女はたださっさと客を品定めしようとしたに過ぎないのだった。なにせ彼女の店には値の張る札入れもまあまあのもまったくの安ものもそろっているのだったから。余計な問いを省くべく、彼女はただちに梯子をのぼって一番上の棚から箱をひとつ取り出した。そこには少なからぬ客たちが別のと引き換えにおいていった札入れがしまってあるのだった。その際にアンドレアスはその娘がとても綺麗な脚をしていて、とてもほっそりとした靴を履いているのに気付き、そして半ば忘却されたあの時代を憶い出した。あの頃は彼自身こんなふくらはぎを撫でさすり、こんな足にキスしたものだった。だが顔は、女たちの顔はもはや憶い出せなかった。ただひとつを例外として。あの顔。それがために彼は嘗て監獄に食らい込んだのだった。
 その間に娘は梯子をおりて箱を開けた。そこで彼は一番上に横たわっている札入れのうちのひとつをろくに見もせずに選んだ。彼は払いを済ませ、そして帽子をまた被り、そして娘にほほえんだ。すると娘もまたほほえんだ。彼はうわのそらで新しい札入れをポケットに入れたが、金はそのままその傍らにとどめた。彼には不意に札入れが無意味に思われた。それにひきかえ彼は梯子に、脚に、娘の足に没頭していた。それが故に、彼はモンマルトルの方角へと向かった。昔よろこびを味わったことのある例の場をもとめて。はたして彼は急勾配の狭い路地に娘たちの居るタヴェルヌを見つけた。彼は幾人かとテーブルを囲んで坐って、一杯おごり、そして娘たちからひとりを選んだ。ありていに云えば一番近くに坐っていたのを。それから彼は彼女のところへ行った。そして、まだ昼下がりだったのが、夜が白むまで眠った――家主は気のいいひとたちだったから、彼を眠るがままにしておいたのだった。
 次の朝、したがって金曜、彼は仕事に出かけた。かの太った紳士のところに。要はそこで主婦の荷造りを手伝うことであり、そして、家具の荷造運送人たちは既に彼らの業務を遂行していたものの、アンドレアスにはかなり厄介なのやらさほど困難でないのやら諸々の援助作業がまだ残されていた。それでも一日が進むにつれて、彼は筋肉に力が戻るのを感じ、そして仕事を享受していた。なんといっても彼は仕事をしながら育ったのだ。父と同様、炭鉱夫。そしておまけに少々、祖父と同様、農夫。この家の主婦が彼を苛立たせるといったらなかった。意味不明の命令を発するは一遍にあっちへ行けそっちへ行けと指示するはで、彼は途方に暮れてしまうのだった。ところが彼女自身逆上していた。彼はそれを悟った。やはり彼女にとってこのように急に引越すのは容易なことではないのだろう。それに、きっと彼女は新しい家に怖れさえ懐いているのだ。彼女は、外套を着込み、帽子と手袋を着け、小物入れと雨傘を持ちと、身支度をととのえてあった。まだ一昼夜そしてさらに明日もこの家に居続けねばならないことはわかっていたはずなのに。彼女はおりおり口紅を塗るはずだ。アンドレアスはそれを天晴れ把握した。なにせ彼女は貴婦人なのだ。
 アンドレアスは一日中はたらいた。彼が切り上げたとき、一家の主婦は彼に云った。「明日はきっかり朝七時に来てちょうだい。」彼女は小物入れから小銭入れを引き出した。そこには銀貨が入っていた。彼女はながいこと探り、十フラン硬貨を握り、だがそれをまたもとに戻し、それから五フランを取り出すことに心を決めた。「はい酒手」と彼女は云った。そして付け加えた。「でも、全部飲んでしまわないでね。そして時間通り明日ここにね。」
 アンドレアスは礼を云い、去り、酒手を飲み尽くしたが、しかし、それ以上は飲まなかった。彼はその夜を小さなホテルで寝て過ごした。
 彼は朝六時に起こされた。そして溌溂として仕事に向かった。
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聖のんだくれ伝 (その二) [本棚]

聖のんだくれ伝
ヨーゼフ・ロート

その二

 小綺麗ないでたちの紳士も暗闇の中に消え去った。彼は本当に改宗の奇蹟に与っていた。そして赤貧者の暮らしをおくることに決めていた。そして、それが故に、彼は橋の下に居るのだった。
 ところがもう一方はといえば、彼はのんだくれ、まさしく大酒のみだった。名前はアンドレアスといった。そして彼は、多くののんだくれと同様に、行きあたりばったりで暮らしていた。二百フランをもつのは久しぶりだった。そしてあまりに久しぶりだったが故にか、橋の下には稀な街燈のうちのひとつの乏しいあかりのもとで、紙切れをそして鉛筆の端くれを引っぱり出すと、小さな聖テレーズの住所をそしてこのときから出来た彼女への借りの二百フランという額を書きとめた。彼はセーヌの岸辺から堤上に通ずる階段のうちのひとつをのぼって行った。上には一軒のレストランが在った。それを彼は知っていたのだが。そこで彼は中へ入り、そしてたっぷりと飲み食いし、そして大枚を支払い、そしてついでに、いつもどおり橋の下で過ごすつもりのその夜のために、さらに一瓶をまるごと購った。いや、そればかりでなく、彼はさらに紙屑籠から新聞を拾いあげた。ただし、読むためにではなくて、それで身を覆うために。新聞は暖を保つのであり、宿無したちは皆それを心得ている。
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聖のんだくれ伝 (その一) [本棚]

せめて半年に一度くらいは更新したい。が、別に書きたいこともない。そこで、Joseph Roth の小説 Die Legende vom heiligen Trinker (エルマンノ・オルミ監督の映画『聖なる酔っぱらいの伝説』の原作)をぼちぼちと日本語にうつしていこうと思う。

聖のんだくれ伝
ヨーゼフ・ロート

その一

 1934年のとある春宵に、セーヌに架かる橋々のひとつから河岸に至る石段をひとりの分別ざかりの紳士が降りて行った。世間のあらかたが知ってのとおり、そして、それでもやはり、この機会に人々の記憶に呼び戻されてよいことだが、パリの宿無したちはこの岸辺に泊まるのを、というか、キャンプするのを常としている。
 さて、そんな宿無したちのうちのひとりの男が件の分別ざかりの紳士の方へと偶々やって来た。ちなみに、この紳士は小綺麗ないでたちをしていて、見知らぬ街々の見所という見所をその眼でたしかめる腹積もりの旅人といった風情を醸していた。一方の宿無し男はいかにもその境涯を共にする他の皆とそっくり同様に荒んで憐れに見えたが、しかし、かの小綺麗ないでたちの分別ざかりの紳士には彼が特別の配慮に値するように思われた。何故か、それは我々にはわからない。
 述べたとおり、もう宵であり、河岸も橋の下は堤上や橋上のあたりよりも濃く暮れていた。その宿無しで見るからに荒んだ男は少しばかりよろめいていた。彼は件の年輩の小綺麗な身なりの紳士には気付いていないようだった。ところが、こちらは、よろめくどころか、その歩みを確とまっすぐに彼方へと向けており、どうやら既に遠くからよろめく男に気付いていたらしかった。分別ざかりの紳士が荒んだ男の行く手をまともに遮った。双方が互いに向かい合って立ちどまった。
 「どちらへ行かれるのか、兄弟よ」と年輩の小綺麗ないでたちの紳士が問うた。
 他方はしばし彼を眺め、そして云った。「俺に兄弟があったとは知らなかった。それにこの足が何処に向いているのか俺は知らない。」
 「私が道案内を試みましょう」と紳士は云った。「だたし、ひとつ尋常でない頼みごとをしても、腹を立てないでいただきたい。」
 「どんなことだって引き受けようってもんだ」と荒んだ男が応じた。
 「いかにもあなたは間々失敗を仕出かすと見えるが、しかしながら、神はあなたを我が行く手に遣し賜う。あなたはお金が入り用に違いない。いや、この言葉を悪く取らないで。私はなにせ余計に持ち合わせているのです。遠慮なく云ってください。いかほど入り用か。当座の分だけでも。さあ。」
 他方は二、三秒思案して、そして云った。「二十フラン。」
 「それではどうにも少なすぎる」と紳士が返した。「二百は入り用のはずです。」
 荒んだ男は一歩あとずさった。そうして倒れてしまうかと見えたが、それでも突っ立ったままにとどまった。よろめいてはいたものの。やがて彼は云った。「たしかに二百フランの方が二十よりありがたいが、でも、俺は潔い男だ。あんたは俺を見損なっているようだ。あんたがくれようっていうその金を俺は受け取る訳にはいかない。何故って、第一に、残念だが俺はあんたと知り合いでもなんでもないし、第二に、いつ何処でそれをあんたに返したらいいのかわからないし、第三に、あんただって催促するあてが無い。俺には住所なんて無いんだから。俺はほとんど毎日この河の違う橋の下に居るんだ。それでもやっぱり、いまさっき啖呵をきったとおり、俺は潔い男だ。住所は無くったってさ。」
 「私にも住所はありません」と分別ざかりの紳士が応じた。「私も毎日違う橋の下に居るのです。そして、それでもやはり、私はあなたに二百フランを――あなたのような男には笑止な額なのだし――気もちよく受け取ってくれるよう願いたい。ついては返済ですが、お金を返すにあたって利用し得るような銀行なりとも私があなたに示し得ないのは何故なのか、それを納得してもらうには、もっと昔にさかのぼって語らねばなりません。私はクリスチャンになったのです。リジューの小さな聖テレーズのあの物語を読んだがために。そしていま私はとりわけサント・マリー・デ・バティニョールの礼拝堂に在るかの聖女の小さな立像を崇めています。あなたもじきにそれを見ることになるでしょう。つまり、ほんの二百フランを手にしてあなたの良心がその笑止な額を借りのままにとどめてはならないと命じたときには、どうぞすぐにサント・マリー・デ・バティニョールへ行き、ミサを執りおこなったばかりの司祭の手へとそのお金を託されたい。そもそもあなたが誰かに借りがあるとすれば、それは小さな聖テレーズなのです。ただし、サント・マリー・デ・バティニョールのということを忘れずに。」
 そこで荒んだ男は云った。「あんたは俺を、俺の潔さをちゃんとわかってくれたようだ。俺はあんたに約束する。約束をまもるって。ただ、俺は日曜にしかミサに行けない。」
 「どうぞ、日曜に」と年輩の紳士は云った。彼は札入れから二百フランを引き抜き、それをよろめく男に与え、そして云った。「感謝します。」
 「よろこんで引き受けたまでのことさ」とこちらは応じ、たちまち深い闇の中に消え去った。
 彼らが遣り取りしている間に下方は真っ暗になっていたのだった。しかるに上方では、橋上や堤沿いでは、街燈が銀色の光を放って、パリの陽気な夜を賑々しく告げていた。
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