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聖のんだくれ伝 (その十一) [本棚]

聖のんだくれ伝
ヨーゼフ・ロート

その十一

 彼はふたたび部屋に戻り、待ち、聞耳を立て、そしてもう決心していた。朝が来るのなど待たずにさっさとあの美しい娘と近づきになることを。何となれば、このところのほとんど間断無い一連の奇蹟によって、彼は恩寵が自分の上に止まっていると既に信じていたのだが、しかし、まさにそれが故に、或る種の我儘への権利を授かっているものと思い込み、そして、恩寵にさらに先んずるのが或る意味で礼儀に適った振舞なのであって、そのためにそれを損ねることなど些かも無いはずだと極込んでいたのだった。さて、そんな訳で、八十七号室の娘のかすかな足音が聞こえたように思ったとき、彼はドアを用心深く細めに開け、そして部屋に戻って来たのが実際に彼女であることを見てとった。ところで、いかにも長年の経験不足のせいで彼が気付かなかったのは、美しい娘もまた彼の覗き見に気付いていたという侮り得ない事態だった。それで彼女は、その生業と習慣のおしえに従い、慌しくも手早くも部屋の体裁をととのえて天井のランプを消してベッドに横になってナイトテーブルのランプの光のもとで一冊の本を手に取って読みだした。ただし、それはもう疾うに読んだことのある本だった。
 はたしてしばしののち、彼女がやはり予期していたとおり、ドアがおずおずとノックされ、そしてアンドレアスが入って来た。彼は次の瞬間にはもっと接近するよう誘いがかかるだろうという確信を既にもってはいたのだが、ともあれ戸口で立ちどまった。何となれば、愛らしい娘がその場から動かず、本を置きさえせず、ただこう訊ねたからだった。「あら、何か御用。」
 アンドレアスは入浴と石鹸と肘掛椅子と壁紙と鸚鵡の頭の模様とスーツとで自信がついていたので、こう返した。「明日まで待てないよ、お嬢さん。」娘は黙っていた。
 アンドレアスは彼女に歩み寄り、何を読んでいるのか訊ね、そして真率に云った。「俺は本は好かない。」
 「私はここにちょっとのあいだ泊まってるだけなのよ」と娘はベッドの上で云った。「日曜までしかここには居ないの。月曜にはまたカンヌに出なきゃいけなくて。」
 「て云うと」とアンドレアスが訊ねた。
 「カジノで踊ってるの。ギャビーって名前、一度も聞いたことないかしら。」
 「もちろん、新聞で知ってる」とアンドレアスは嘘をついた――そして「それにくるまってたんだ」と付け加えようとした。だがやめておいた。
 彼はベッドの端に坐ったが、美しい娘に異存は無かった。そればかりか彼女は本を置き、そしてアンドレアスは朝まで八十七号室に留まった。
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