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聖のんだくれ伝 (その十) [本棚]

聖のんだくれ伝
ヨーゼフ・ロート

その十

 いまやアンドレアスの塒たるそのホテルの部屋には八十九という番号が附いていた。この部屋にひとりきりになるや、アンドレアスは薔薇色の畝織で覆われた快適な肘掛椅子に坐ってあたりを見回しはじめた。まず赤い絹のような壁紙が眼にとまった。それは淡い金色の鸚鵡の頭の模様で区切られていた。それから壁面の象牙製のボタン三つに、入口の右脇、ベッドの傍のナイトテーブルにその上の暗緑色の笠のランプ、さらには白い取っ手のドア。その向こうには謎めいた何かが、余人はともあれアンドレアスにとっては謎めいたものが潜んでいるかに見えた。さらにベッドの傍には黒い電話が在った。ベッドに横たわっていても左手でいとも容易に受話器を取り得るような絶妙の塩梅で。
 ながながと部屋を眺め、せいぜいそれに馴染むべくこころがけたのち、アンドレアスは俄にうずうずしだした。白い取っ手のドアに刺戟されたからで、不安ながらも、それにホテルの部屋というものに不慣れではあったものの、彼は立ちあがり、そしてそのドアが何処に通じているのかたしかめることに決めた。当然鍵がかかっているものと彼は思っていた。しかるに、それが勝手に、さあどうぞとばかりに開いたのだから、彼の驚きの如何におおきかったことか。
 彼はいまや理解した。それが浴室であることを。ぴかぴかのタイルに仄かに輝いて白い浴槽、そしてトイレ。要するに共同便所のたぐい、彼の同類ならばそう云ったところかも知れない。
 このとき、はたして彼は体を洗いたいという欲求を覚えて、熱い湯と冷たい水をともどもコックから槽へと出しっぱなしにした。そしてそれに入るために服を脱いでみて、はたして彼はシャツをもっていないのを憾むこととあいなった。シャツを脱いでみて、それがひどく汚れているのを知ったからで、それにもともと彼は槽から出ればまたそのシャツを着るほかないことに予め不安を抱いていたのだった。
 彼は槽に入った。ながらく体を洗っていなかったことを思い知った。彼はほとんど歓喜をもって湯浴みし、立ちあがり、また服を着て、それからもはやどうしたものやら知らず身をもてあました。
 好奇心よりは詮方無さから彼は部屋のドアを開け廊下に歩み出て、同様に部屋から出て来たばかりの若い女をそこに見いだした。美しくて若い。彼には彼女がそう見えた。しかも、彼女は以前彼が札入れを買った店のあの女店員を憶わせた。そして少しばかりカロリーヌをも。それで彼は軽く礼をして挨拶をしたのだが、彼女が頷いて応じたものだから、思いきってずばりと云った。「綺麗だ。」
 「あなただって素的よ」と彼女が応じた。「待って。明日会いましょう。」――そして彼女は廊下の暗闇の中に歩み去った。一方彼は俄に愛の渇きを覚え、彼女が泊まっている部屋のドアの番号をたしかめた。
 それは八十七号だった。彼はそれを心に刻みつけた。
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