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聖のんだくれ伝 (その九) [本棚]

聖のんだくれ伝
ヨーゼフ・ロート

その九

 その部屋は六階に在って、アンドレアスとフットボール選手はエレヴェーターを使わねばならなかった。アンドレアスはもちろん手荷物ひとつもっていなかった。ところがドアマンもエレヴェーターボーイもさらにはホテルの使用人たちの誰もそれを不思議がりはしなかった。何となれば単純にそれが奇蹟だったからで、奇蹟の内側には何の不思議も無いのだ。ふたりで上の部屋に立ったとき、フットボール選手カニャクは学校友達のアンドレアスに云った。「石鹸が要るんじゃないか。」
 「俺たちみたいな者は石鹸無しだってやっていけるんだよ」とアンドレアスが返した。「俺はここに一週間石鹸無しで居るつもりだ。体は洗うけどな。それよりこの部屋の栄光のためにさっそくなにか飲むものをたのもうってもんだ。」
 そこでフットボール選手がコニャクを一瓶註文した。それを彼らは空になるまで飲んだ。それから部屋を出てタクシーをつかまえてモンマルトルに乗り付けた。それも娘たちの居る、アンドレアスがほんの数日前に入った例のカフェに。そこに二時間居坐って学校時代の憶い出をあれこれ語り合ってから、フットボール選手はアンドレアスを家に、つまり彼が借りてやったホテルの部屋に連れて行き、そして云った。「もう遅い。俺は行くよ。明日スーツを二着送るから。それと――金は要るか。」
 「いや」とアンドレアスは云った。「九百八十フランもってる。まんざらじゃないよ。さあ帰った帰った。」
 「二、三日したら来るよ」と友人が、フットボール選手が云った。
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