SSブログ

聖のんだくれ伝 (その十二) [本棚]

聖のんだくれ伝
ヨーゼフ・ロート

その十二

 土曜の朝、彼はこの美しい娘をその出立までもう放すまいという断固とした決心とともに目覚めた。それどころか彼の中には若い女とのカンヌへの旅の淡い想いが花開いてさえいた。彼は、あらゆる貧乏人と同様(そして殊にのんだくれの貧乏人にはその傾きがある訳だが)、ポケットにもっている少々の金額をとかく大仰に考え勝ちなのだった。かくてこの朝彼はその九百八十フランをいま一度数えなおした。そしてそれが札入れに収まっていて、さらにその札入れが新しいスーツに差し込んであるものだから、彼はその金額を十倍ほども仰山に考えた。それで、美しい娘から離れて一時間後、彼女がドアをノックもせずに入って来たときにも、彼は悠揚としてせまらなかった。そして彼女が、カンヌへの出立前、この土曜をふたりはどう過ごすべきかと問うたので、彼は出任せに云った。「フォンテーヌブロー。」何処かで、夢うつつで、彼はそれを耳にしたことがあったのかも知れない。ともあれ何故いかにしてその地名が舌にのぼったのか彼にはもはやわからなかった。
 かくて彼らはタクシーを雇ってフォンテーヌブローへと向かった。そしてそこで明らかとなったのだが、かの美しい娘は上等の食べものが食べられて上等の飲みものが飲める上等のレストランを知っているのだった。しかも彼女はそこのウエイターとも知り合いであり、そして彼をファーストネームで呼ぶのだった。さて我らがアンドレアスが嫉妬深く生まれついていたならば、さぞや腹を立てたことだろう。だが彼は嫉妬深くはなかったため、はたして腹を立てなかった。彼らは食べて飲んでひとときを過ごして、それからふたたびタクシーでパリへと引き返した。そしてきらめくパリの宵がだしぬけに前方に展開したとき、彼らにはそのもとですることがひとつとして思い当たらなかった。さながら互いに何の用も無くただ偶然に出くわしただけの者たちが途方に暮れるごとく。夜はあまりに明るすぎる沙漠も同然に彼らの前にひらけていた。
 さて、男と女に授けられている根源的な経験を軽薄に浪費したあと、彼らには一緒に何をしたものやらもはやわからなかった。そこで彼らは映画館へ行くことにした。何をしたものやらわからなくなったときさしあたり我々の時代の人々に残されている途だ。かくて彼らはそこに腰を落ち着けたが、それは暗闇ではなく、暗がりですらなく、かろうじて薄暗がりとでも呼び得る処だった。さて、彼らは、かの娘と我らがアンドレアスは手を握り合った。しかしながら彼の手の握りはなおざりであり、そして彼自身それを気に病んだ。彼自らが。それから休憩となったとき、彼は美しい娘とともにロビーへ行って飲むことに決め、そしてそのとおり彼らはふたりして席を離れて飲んだ。さて、映画はもはや彼らの興味を些かも惹かなかった。彼らはかなりの重苦しさのうちにホテルに向かった。
 次の朝、それは日曜だった訳だが、アンドレアスは金を返さねばならないという責務の自覚とともに目覚めた。彼は前日よりも迅速に立ちあがったが、あまりに迅速だったせいで美しい娘が驚いて眠りから覚め、そして訊ねた。「どうしてそんなに急いでるの、アンドレアス。」
 「借金を返さなきゃならないんだ」とアンドレアスは云った。
 「どうして。今日、日曜に」と美しい娘は訊ねた。
 「そう、今日、日曜に」とアンドレアスは返した。
 「女、それとも男、あなたがお金を借りてるのは。」
 「女」とアンドレアスはためらいながら云った。
 「何て名前。」
 「テレーズ。」
 それで美しい娘はベッドから飛び起きて両の拳を固めて実際アンドレアスの顔を叩いた。
 さてそれで彼は部屋から逃げ出し、そしてホテルをあとにした。そしてもう振り返ること無くサント・マリー・デ・バティニョールの方角へと彼は去って行った。今日ついに小さなテレーズに二百フランを返済することを得るのだというたしかな自覚とともに。
コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。