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規則が振舞い方を規定することなどあり得ないとさ。どんな振舞い方も当の規則に合致させ得るのだからと。 [ノート]

前回の最後にヴィトゲンシュタインの名をだしたが、その後、『哲学探究』第一部を読みなおしていたところ、というか、原文をはじめてまともに読んでいたら、どうもひっかかるところがあって、あれこれ考えてみたあげく、そのあたりがはじめて理解できた気になったので、ちょっと書留めておきたい。
まずは、そのあたり、§198 から§202 にかけてを適宜省略しつつ引いておこう。

 198. »Aber wie kann mich eine Regel lehren, was ich an dieser Stelle zu tun habe[それにしても規則がこの場合に何を為すべきかを私に教えるというようなことがどうしてあり得るのか]? Was immer ich tue, ist doch durch irgendeine Deutung mit der Regel zu vereinbaren[私が何を為そうが、それは何らかの解釈によって当の規則に適合させ得るのに].« ― Nein, so sollte es nicht heißen[いや、そう云うべきではなかろう]. Sondern so[寧ろこうだ]: Jede Deutung hängt, mitsamt dem Gedeuteten, in der Luft[何れの解釈も解釈されたものともども宙に浮いている]; sie kann ihm nicht als Stütze dienen[その支えにはならない]. Die Deutungen allein bestimmen die Bedeutung nicht[解釈が単独で意義を規定することはない].
 »Also ist, was immer ich tue, mit der Regel vereinbar[それでも私が何を為そうが、それは当の規則に適合し得るだろう]?« ― Laß mich so fragen[こう問わせてもらおう]: Was hat der Ausdruck der Regel ― sagen wir, der Wegweiser ― mit meinen Handlungen zu tun[規則の表現――例えば道標――は私の振舞とどんな係りをもつのか]? Was für eine Verbindung besteht da[どんな類の結びつきがそこになりたっているのか]? ― Nun, etwa diese[そう、例えばこれだ]: ich bin zu einem bestimmten Reagieren auf dieses Zeichen abgerichtet worden, und so reagiere ich nun[私はこの記号に特定の反応をするよう仕込まれたのであり、それでいまそう反応する].
 Aber damit hast du nur einen kausalen Zusammenhang angegeben[だが、君は因果関係を挙げているだけだ], nur erklärt, wie es dazu kam, daß wir uns jetzt nach dem Wegweiser richt[どうやって我々が道標に導かれるようになったかを説明しているだけだ]; nicht, worin dieses Dem-Zeichen-Folgen eigentlich besteht[この記号随遵がそもそも何処になりたっているのかを説明してはいない]. Nein; ich habe auch noch angedeutet[いや、私はさらに次の点をも示唆している], daß sich Einer nur insofern nach einem Wegweiser richtet, als es einen ständigen Gebrauch, eine Gepflogenheit, gibt[安定した使用、慣習がある限りにおいて、ひとは道標に導かれる].

 199. Ist, was wir »einer Regel folgen« nennen, etwas, was nur ein Mensch, nur einmal im Leben, tun könnte[我々が「規則にしたがう」と呼ぶものは、ただ一人の者だけが生涯にただ一度だけ為し得るようなことがらだろうか]? ― Und das ist natürlich eine Anmerkung zur Grammatik des Ausdrucks »der Regel folgen«[ところで、これはもちろん「規則にしたがう」という表現の文法についての註だ。].
 ... Einer Regel folgen, eine Mitteilung machen, einen Befehl geben, eine Schachpartie spielen sind Gepflogenheiten (Gebräuche, Institutionen)[《規則にしたがう》、《報告をする》、《命令をあたえる》、《チェスの勝負をする》は慣習(しきたり、制度)だ。]...

 200. Es ist natürlich denkbar, daß in einem Volke, das Spiele nicht kennt, zwei Leute sich an ein Schachbrett setzen und die Züge einer Schachpartie ausführen[盤上ゲームのようなものを知らない民族において二人の者がチェス盤にむかってチェスの一勝負に相当する仕方で駒を動かす、ということはもちろん考え得る]; ja auch mit allen seelischen Begleiterscheinungen[しかもそれらしい心的見かけをも伴って]. Und sähen wir dies, so würden wir sagen, sie spielten Schach[そしてそれを見たら我々は云うことだろう。彼らはチェスをしている、と]...

 201. Unser Paradox war dies[我々のパラドクスとやらはこれなのだった]: eine Regel könnte keine Handlungsweise bestimmen[規則が振舞い方を規定することはあり得ない], da jede Handlungsweise mit der Regel in Übereinstimmung zu bringen sei[どんな振舞い方も当の規則に合致させ得るのだから]. Die Antwort war[答はこうなのだった]: Ist jede mit der Regel in Übereinstimmung zu bringen, dann auch zum Widerspruch[合致させ得るからには、矛盾させることだってできる]. Daher gäbe es hier weder Übereinstimmung noch Widerspruch[よって、ここには合致も矛盾も無かろう].
 Daß da ein Mißverständnis ist, zeigt sich schon darin[ここに誤解が存在することは次の点から既に明らかだ], daß wir in diesem Gedankengang Deutung hinter Deutung setzen[我々はこの思考過程において解釈に解釈を重ねている]; als beruhige uns eine jede wenigstens für einen Augenblick, bis wir an eine Deutung denken, die wieder hinter dieser liegt[それぞれの解釈が、ともあれ次に控えている解釈を考えるまでの束の間は、我々を落着かせでもするかのごとく]. Dadurch zeigen wir nämlich[それによって我々は次のことを示している訳だ], daß es eine Auffassung einer Regel gibt, die nicht eine Deutung ist[解釈ではない規則把握が在る]; sondern sich, von Fall zu Fall der Anwendung, in dem äußert, was wir »der Regel folgen«, und was wir »ihr entgegenhandeln« nennen[適用事例から適用事例へと、我々が何を「規則にしたがっている」と呼び何を「規則に反して振舞っている」と呼ぶかに表われる規則把握が].
 Darum besteht eine Neigung, zu sagen: jedes Handeln nach der Regel sei ein Deuten[そういう訳で、規則にのっとった振舞は何れも解釈である、とする傾向は根強い]. »Deuten« aber sollte man nur nennen: einen Ausdruck der Regel durch einen anderen ersetzen[だが、規則の一表現を別の表現に置き換えることをもっぱら「解釈」と呼ぶべきだろう。].

 202. Darum ist ›der Regel folgen‹ eine Praxis[そういう訳で、「規則にしたがう」はプラクシスだ]. Und der Regel zu folgen glauben ist nicht: der Regel folgen[そして《規則にしたがっていると思っている》は《規則にしたがっている》ではない]. Und darum kann man nicht der Regel ›privatim‹ folgen[それ故、規則に「私的に」したがうことは叶わない], weil sonst der Regel zu folgen glauben dasselbe wäre, wie der Regel folgen[さもなければ、《規則にしたがっていると思っている》が《規則にしたがっている》と同じことになってしまうから].

§201 は「Unser Paradox war dies」と過去時制ではじまり、「eine Regel könnte keine Handlungsweise bestimmen, da jede Handlungsweise mit der Regel in Übereinstimmung zu bringen sei」と接続法(第二に第一)で続けられている。つまり、そのパラドクスなるものは念入りに距離を置くようにして呈示されている訳で、さっさと片付けるためにもちだされているようにも受けとれる。(それを酌んで、上ではその出だしを「我々のパラドクスとやらはこれなのだった」と訳してみた。はじめはそれに続く方を今回のこの文章のタイトルのように訳そうかと考えたのだったが。)そして、実際それは、次のような意味で、その場で片付けられていると云い得る。
件のパラドクスとやらは、§198 に現われる「規則がこの場合に何を為すべきかを私に教えるというようなことがどうしてあり得るのか? 私が何を為そうが、それは何らかの解釈によって当の規則に適合させ得るのに」という引用符にくくられた主張ともども、解釈なるものに惑わされた錯誤の見本なのであり、《規則にしたがう》が那辺に存するのかをはっきりさせるための手だてとしてひきあいにだされている。そして、《規則にしたがう》はプラクシスであり、規則に私的にしたがうことは叶わない、ということが見さだめられたところで、用済みとなっている。
なお、俺がひっかかったのは別に原文の叙法や時制ではなくて、「規則が振舞い方を規定することはあり得ない。どんな振舞い方も当の規則に合致させ得るのだから」というようなことがどうして云い得るのか、という点なのだった。そして、あれこれ考えているうちに、これは接続法で述べられているのだから問題としてまともに提起されている訳ではないのではないか、と思いあたったのだった。
もちろん、《規則にしたがう》をめぐる話はこれでは終わらない。ヴィトゲンシュタインがしつこく考え続けたのは§185 に登場する +2 の数列を 1000、1004、1008、1012 と続ける生徒に象徴されることがらだったようなのだが、しかし、それについてはまたの機会としよう。
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