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続アキレスがカメに云ったこと [ノート]

その後、いわゆる伝統的論理学ではなしに元祖アリストテレスの論理学というのはそもそもどういうものなのか、興味を覚え、分析論前書の A. J. Jenkinson による英訳のはじめの方に当たってみたところ、キャロルはそのあたりの知識も前提としていたのではないかと気付いたので、それについてちょっと書き留めておこうと思う。なお、アリストテレスは「sullogismos」という語を単に妥当な推論というほどの意味で用いていたようだ。下の引用における「syllogism」は、だから、そのつもりで読み替えてもらいたい。また、ここで扱うのはいわゆる定言三段論法の形の推論だけであり、そこに現われる命題は二つのタームを含む次のような形のものに限られる。
● B はみな A である。
● B は一切 A でない。
● B の一部は A である。
● B の一部は A でない。

アリストテレスはまず次のように述べている。
「Whenever three terms are so related to one another that the last is contained in the middle as in a whole, and the middle is either contained in, or excluded from, the first as in or from a whole, the extremes must be related by a perfect syllogism... If A is predicated of all B, and B of all C, A must be predicated of all C: we have already explained what we mean by ‘predicated of all’. Similarly also, if A is predicated of no B, and B of all C, it is necessary that no C will be A.」(Prior Analytics I.4)
この「predicated of all」の意味とは次の通り。
「That one term should be included in another as in a whole is the same as for the other to be predicated of all of the first. And we say that one term is predicated of all of another, whenever no instance of the subject can be found of which the other term cannot be asserted.」(I.1)
どうもいまひとつ要領を得ないが、ここはこれを勝手に今日流に解釈し、そうして先のくだりを敷衍してみることにしたい。
まず、タームの外延(つまりそのタームを具現している個物の総体)を「ext(A)」のように表わすことにして、次のような形の命題を考えよう。
● B がみな A であるのは ext(B) が ext(A) にすっかり含まれる場合であり、その場合に限る。
● B が一切 A でないのは ext(B) が ext(A) に全然含まれない場合であり、その場合に限る。
● B の一部が A であるのは ext(B) が ext(A) に全然含まれないわけではない場合であり、その場合に限る。
● B の一部が A でないのは ext(B) が ext(A) にすっかり含まれるわけではない場合であり、その場合に限る。
ここでは外延が空のタームは考えに入れないものとし、これらの形の命題をひとからげに量の原理とでも呼ぶことにして、さらに次のような形の命題を考えよう。
(1) ext(C) が ext(B) にすっかり含まれ ext(B) が ext(A) にすっかり含まれるならば、ext(C) は ext(A) にすっかり含まれる。
(2) ext(C) が ext(B) にすっかり含まれ ext(B) が ext(A) に全然含まれないならば、ext(C) は ext(A) に全然含まれない。
量の原理を認め、さらに (1) や (2) の形の命題を悉く認めるならば、次のような形の命題はそこに含まれるタームの如何にかかわらず悉く真であることが了解されるだろう。
(1') C がみな B であり B がみな A であるならば、C はみな A である。
(2') C がみな B であり B が一切 A でないならば、C は一切 A でない。
もちろん、以上は (1') や (2') の形の命題が今日流に云えば論理的に真(あるいは妥当あるいは恒真)であることを証明しようとするものではない。ただ、タームの外延のあいだの関係の直観的把握にうったえることによって、これらの形の命題が謂わば原理的に真であることを浮かびあがらせようと試みているまでだ。さて、それが納得されたとして、これらの形の命題を前提に含む次のような形の推論を考えてみよう。
(inf1) C はみな B であり、B はみな A である。ところが、C がみな B であり B がみな A であるならば、C はみな A である。したがって、C はみな A である。
(inf2) C はみな B であり、B は一切 A でない。ところが、C がみな B であり B が一切 A でないならば、C は一切 A でない。したがって、C は一切 A でない。
これらの形の推論が妥当であることは自明だろう――カメには暫し口を噤んでいてもらうとして。ところが、(1') や (2') の形の命題はそこに含まれるタームの如何にかかわらず悉く真なのだから、これらの形の前提を (inf1) や (inf2) の形の推論から云うまでもないものとして省いてしまうことにしても別に不都合はないだろう。かくて伝統的論理学における定言三段論法第一格の通称 Barbara および Celarent の推論規則が得られることになる。
ここでさらに次のような形の命題を考えよう。
● ext(B) が ext(A) に全然含まれないならば、ext(A) は ext(B) に全然含まれない。
● ext(B) が ext(A) にすっかり含まれるならば、ext(A) は ext(B) に全然含まれないわけではない。
● ext(B) が ext(A) に全然含まれないわけではないならば、ext(A) は ext(B) に全然含まれないわけではない。
量の原理を認め、さらにこれらの形の命題を悉く認めるならば、次のような形の命題は悉く真であることが了解されるだろう。
● B が一切 A でないならば、A は一切 B でない。
● B がみな A であるならば、A の一部は B である。
● B の一部が A であるならば、A の一部は B である。
かくて、(inf1) および (inf2) の場合と同様に、いわゆる換位(conversion)の三つの推論規則が得られる。
アリストテレスが分析論前書のはじめのあたりでおこなっているのは、以上のようにして得られる五つの推論規則を駆使して、伝統的論理学における通称 Darii、Ferio、Cesare、Camestres、Festino、Baroco、Darapti、Felapton、Disamis、 Datisi、Bocardo、Ferison の十二の規則を導く作業なのだと解釈し得る。せっかくだから、第二格の四つについて、それを見ておこう。
まずは Cesare と Camestres から。
「Let M be predicated of no N, but of all O. Since, then, the negative relation is convertible, N will belong to no M: but M was assumed to belong to all O: consequently N will belong to no O. This has already been proved. Again if M belongs to all N, but to no O, then N will belong to no O. For if M belongs to no O, O belongs to no M: but M (as was said) belongs to all N: O then will belong to no N: for the first figure has again been formed. But since the negative relation is convertible, N will belong to no O. 」(I.5)
これは次のように云い替えることができるだろう。
「まず、N は一切 M でないと仮定すれば、換位によって、M は一切 N でない。そこで、さらに、O はみな M であると仮定すれば、第一格の第二の推論規則[Celarent]によって、O は一切 N でない。つまり、N が一切 M でなく O がみな M であるならば、O は一切 N でない。
次に、N はみな M であると仮定する。そのうえで、O は一切 M でないと仮定すれば、換位によって、M は一切 O でないから、ふたたび第一格の第二の推論規則によって、N は一切 O でない。したがって、換位によって、O は一切 N でない。つまり、N がみな M で O が一切 M でないならば、O は一切 N でない。」
次に Festino と Baroco。
「...if M belongs to no N, but to some O, it is necessary that N does not belong to some O. For since the negative statement is convertible, N will belong to no M: but M was admitted to belong to some O: therefore N will not belong to some O: for the result is reached by means of the first figure. Again if M belongs to all N, but not to some O, it is necessary that N does not belong to some O: for if N belongs to all O, and M is predicated also of all N, M must belong to all O: but we assumed that M does not belong to some O. And if M belongs to all N but not to all O, we shall conclude that N does not belong to all O... 」(I.5)
これは次のように云い替えることができるだろう。
「まず、N は一切 M でないと仮定すれば、換位によって、M は一切 N でない。そこで、さらに、O の一部は M であると仮定すれば、第一格の第四の推論規則[Ferio]によって[つまり、N が一切 M でなく O の一部が M であるならば、O の一部は N でないから]、O の一部は N でない。つまり、N が一切 M でなく O の一部が M であるならば、O の一部は N でない。[なお、Ferio は Cesare にもとづいて導かれる。Cesare は既に見た通り Celarent にもとづいて導かれるから、結局、Festino は Celarent に還元される。]
次に、N はみな M であると仮定し、また、O の一部は M でないと仮定する。そのうえで、O はみな N であると仮定すれば、第一の仮定から、第一格の第一の推論規則[Barbara]によって、O はみな M である。しかし、これは第二の仮定と両立し得ないから、O の一部は N でない。つまり、N がみな M であり O の一部が M でないならば、O の一部は N でない。」
かくて、(inf1) および (inf2) の場合と同様に、四つの推論規則が得られることは明らかだろう。

さて、ここでカメに口を開いてもらうとすればどうなるか? もちろんアキレスにも加わってもらって。聞けば彼は、特大ノートのページ切れのせいでカメとの共同作業が頓挫したのち、ケンブリッジに遊学して新進の哲学徒バートランド・ラッセルと近付きになり、イェーナのゴットロープ・フレーゲの概念記法なるものを一緒に研究していたのだとか――息抜きにはフットボールをしたりしつつ。しかも、彼はラッセルの未来の弟子ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインがやがて書き遺すことになる数学の基礎をめぐる一聯のノートのコピーまで早々と手に入れて来たらしい。――と書いておいて、あとはうっかりここまで読んでしまったあなたに委ねるとしよう。別に急用があるわけではないのだが。
なお、Stanford Encyclopedia of Philosophy の Aristotle's Logic のページ
http://plato.stanford.edu/archives/sum2015/entries/aristotle-logic/
をおおいに参考にしたことを付け加えておく。
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