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聖のんだくれ伝 (その十五) [本棚]

聖のんだくれ伝
ヨーゼフ・ロート

その十五

 タリ・バリには大勢ひとが居た。何となれば宿の無い者たちが少なからずそこで寝ていたからだ。幾日も、幾夜も、昼はカウンターの陰でそして夜は長椅子の上で。アンドレアスはその日曜たいそう早くに立ちあがった。遅刻の心配をしていたミサのためというよりは、むしろしかるべき日数分の飲物代と料理代と宿代を払うよう催促してくるに相違ない亭主への怖れから。
 しかしながら彼は誤った。亭主は既に彼よりずっと早く起きていたのだった。何となれば亭主は彼を随分前から知っており、我らがアンドレアスにはあらゆる機会を捉えて払いを免れようとする傾きがあることを心得ていたからだ。それで我らがアンドレアスは火曜から日曜にわたる料理代と飲料代を飲み食いした分よりも遥かに多く払わされる仕儀となった。何となればタリ・バリの亭主は客たちの誰が計算ができて誰ができないか区別することを心得ていたので。そして我らがアンドレアスは、多くののんだくれと同じく、計算のできない組に属していた。かくてアンドレアスは有り金のかなりの部分を払いに当て、そしてそれでもやはりサント・マリー・デ・バティニョールの礼拝堂の方角へと赴いた。もちろん聖テレーズにすっかり返済するに足るだけの金を自分がもはやもっていないことはよくわかっていた。だが彼には会う約束をした友人ヴォイテクのことが聖なる債権者のことときっかり等しく同様に気になった。
 さてそんな訳で彼は件の礼拝堂の近くにやって来たが、またしてもあいにく十時のミサが終わったあとで、この度も人々が彼とは逆にどっと流れ出ており、それで例によって例のビストロへの途をとったとき、うしろで呼び声がして、彼は不意にあらっぽい手を肩に感じた。そこで体を廻らすと警官が居た。
 知ってのとおり、多くの似たり寄ったりの者たちと同様、旅券をもっていない我らがアンドレアスは驚いて咄嗟にポケットに手をやった。ただ単にまともな旅券をもっているよう見せかけるために。ところが警官は云った。「わかってますよ、何を探してるか。ポケットを探っても無駄だ。落としたばかりですよ、札入れ。さあこれ。」そしてふざけて付け加えた。「日曜の午前も早くからアペリティフを飲み過ぎたせいですよ。」
 アンドレアスはそそくさと札入れを攫み、うわのそらで帽子を撮み、そしてまっしぐらに向かいのビストロへ入った。
 彼はそこでヴォイテクを面前にしたが、一目では気付かず、かなりの間ののちにやっと認識した。そしてそれだけに我らがアンドレアスは彼にいよいよ懇ろに挨拶した。それから彼らはかわりばんこにおごり合ってとんと収まりがつかず、そのうえヴォイテクは一人前に慇懃に長椅子から立ってアンドレアスに上席を勧めて、よろめきまくりながらもテーブルを迂回し反対側の椅子に坐って社交辞令を述べた。彼らはもっぱらぺルノーを飲んだ。
 「またなんだか妙なことが起こった」とアンドレアスが云った。「おまえとのランデブヴーに向かおうとしてるところをおまわりが肩を攫んで云うんだ。「札入れを落としましたよ」って。それで全然覚えのないやつをくれたんでポケットに突っ込んで来た。一体全体どういうことなのか、さっそくたしかめてやろう。」
 そう云いながら彼は件の札入れを引っぱり出して調べはじめたが、そこには彼には些かの係わりも無い様々な書付が収まっていた。そして彼はやはり金を見いだし、札を勘定してみると、きっかり二百フランあった。それでアンドレアスは云った。「見ろ。神のしるしだ。いますぐあっちへ行ってついに金を返すぞ。」
 「まだ時間があるぞ、ミサが終わるまで。」とヴォイテクが応じた。「おまえは何の用があってミサへ行こうってんだ。ミサのあいだは返せやしないんだぞ。ミサのあと香部屋へ行きゃあいい。それまで飲もう。」
 「そうだ、そうしよう」とアンドレアスが応じた。
 その瞬間にドアが開いた。そしてアンドレアスは尋常でない胸の痛みをそれに劇しい眩暈を覚えるとともに、瑞々しい少女が入って来て真向かいの長椅子に坐るのを見た。彼女はたいそう瑞々しかった。少女というものをこれまで自分は見たことがなかったのだと彼が思ったほどに。しかも彼女はすっかり空色に装っていた。つまり彼女は青かった。ただ青空だけが、それも並みのではなく祝福された日の青空だけがそうあり得るように。
 そこで彼はよろめきながらも何とか向かいまで歩いて行き、会釈をして、その瑞々しい子に云った。「ここで何をしているんだい。」
 「両親を待っているんです。いまミサから出て来ます。ここに迎えに来てくれるんです。第四日曜はいつも。」そう彼女は云ったが、いかにも出し抜けに話しかけて来た中年男を前に、すっかりうろたえていた。彼女には彼が少々怖ろしかった。
 アンドレアスは続けて訊ねた。「名前は何て云うんだい。」
 「テレーズ」と彼女は云った。
 「まいった」とアンドレアスは続けて声をあげた。「こんなに気高い、こんなに小さな聖女が、こんなに気高くてこんなに小さな貸主がわざわざ俺を訪ねてくれるなんて思ってもみなかった。俺がずっとやって来なかったからって。」
 「何のことかわかりません」と小さな女の子は相当に混乱して云った。
 「おくゆかしい」とアンドレアスが返した。「おくゆかしい。でも俺にはわかっているよ。俺はもうずっと二百フランを借りっぱなしで、返しに来やしなかった。聖なるお嬢さん。」
 「私はお金を貸してなんていません。でもポシェットに少しなら入っています。はい。これを持ってもう行ってください。両親が来ますから。」
 そうして彼女はポシェットから百フラン札を一枚取り出し彼に差し出した。
 ことの始終をヴォイテクは鏡越しに見ていた。そして彼は席を立ってよろよろと歩いて行ってぺルノーを二杯註文して一緒に飲むべくアンドレアスをカウンターへ引っぱって行こうとした。ところがアンドレアスはカウンターへと自ら足を踏み出しかけて、その途端に傀儡のごとくくづおれた。それでビストロに居た皆が驚いた。ヴォイテクもまた。だが最も驚いたのはテレーズという名の少女だった。そして人々は、近所に医者も薬屋も居なかったので、彼を礼拝堂へそれも香部屋へと引き摺って行った。司祭は死についてやはり何がしかの心得をもっているものだからだ。ウエイターたちがその不信心さにもかかわらずそう考えたとおり。それでテレーズという名の女の子も仕方なしに同行した。
 かくて人々は我らが憐れなアンドレアスを香部屋に運び込んだが、残念ながら彼はもう何も語ることができず、ただ小さな債権者に借りている金が入っている上着の左の内ポケットに手をやろうとするかのような身振りをして、そして云った。「テレーズお嬢さん。」――そして彼は息をひきとった。
 神よ、我ら皆に、我らのんだくれどもに、かくもあっさりしてかくも綺麗な死を与えたまえ。

(了)

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