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シンセサイザーがアプリオリ総合判断の基底の位置を占める [休憩室]

前にドゥルーズ&ガタリの『ミル・プラトー』(Gilles Deleuze, Felix Guattari, MILLE PLATEAUX, Les Editions de Minuit)の第四プラトーからシンセサイザーに関わるくだりを引用したが、実はその論点は第十一プラトーで更に展開されているので、今回はそれをざっと見ていこう。(この本では普通なら「章」と呼ばれる文章のブロックが「プラトー」と呼ばれている。なお、例によってフランス語表記のアクサン記号の類は省略する。)まずは、いわゆる古典主義の芸術一般が論じられるところから。
「クラシシズムと口にするとき、ひとはフォルムと素材(forme-matiere)の、というかむしろフォルムと実質(forme-substance)の或る関係のことを云っている。実質はまさにフォルムを付与された素材なのだから。区分され、中心化され、相互の関連で階層化されたフォルムの継起が素材を組織化し、各フォルムは程度に差はあれ重要なパートを受持つこととなる。フォルムはそれぞれに環境のコードの如くであり、フォルム間の移行はほんもののコード変換だ。季節だって環境だ。そこには共存するふたつのオペレーションが在って、ひとつはそれによってフォルムがバイナリーな区別に従って分化するオペレーション、もうひとつはフォルムを付与された実質的パート、環境あるいは季節がそれによって両方向で同じであり得る継起の順序に収まるオペレーションだ。だが、これらのオペレーションのもとで、クラシック・アーティストは極端な、危険な企てを敢行する。彼は諸々の環境を分け、切り離し、調和させ、それらの混淆を調節し、それらのあいだを渡り行く。そうして彼が立ち向かっているもの、それはカオス、カオスの力(les forces du chaos)、飼いならされていない生の素材の力であり、実質を齎すためにフォルムが、環境を齎すためにコードがそこに自らを押付けねばならない当のものだ。驚異的な身軽さ。ひとはバロックとクラシックのあいだに本当に明確な境界を劃し得たためしがないというのはこの意味においてだ。バロック全体がクラシックの奥底で唸りをあげているのであって、クラシック・アーティストの仕事はまさしく神の仕事、カオスを組織化することであり、創造(Creation)!創造(la Creation)!創造の樹(l'Arbre de la Creation)!というのがその唯一の喊声だ。・・・クラシック・アーティストはワン‐ツー(l'Un-Deux)で進む。フォルムが分裂する限りにおいての、そのフォルムの分化のワン‐ツー(男女、男性リズムと女性リズム、声部、楽器の族、アルス・ノヴァのあらゆるバイナリティ)、そして諸々のパートが呼応しあう限りにおいての、そのパートの区別のワン‐ツー・・・」(pp. 416-417)
「リトルネロについて(De la ritournelle)」と題されたこのプラトーではテリトリーに関わることがらが扱われているのだが、はじめのほうに「カオスから環境(les Milieux)とリズム(les Rythmes)が生まれる。これは非常に古くからあるコスモゴニーに属すことがらだ」(p. 384)という言葉が見られる。カオスから環境とリズムが生まれることがコスモスの開闢なのだとすれば、いわゆる古典主義の芸術家の仕事はコスモスの創造になぞらえ得るという訳だろう。では、いわゆるロマン主義の芸術はどうなるのか?
「同様に手短にロマンティシズムを規定しようと試みれば、すべてが変わるのがよく判る。新たな喊声が轟く。大地、テリトリーと大地(la Terre, le territoire et la Terre)!と。アーティストが権利上の普遍性に対する野望と創造者の境涯を棄てるのはロマンティシズムとともにであって、彼は自らをテリトリー化し、テリトリーの結構(un agencement territorial)に加わるのだ。季節はここでテリトリー化される。しかも、大地はテリトリーとはきっと別ものだ。大地、それはテリトリーの最奥にある、あるいはその外部に焦点として投影された、そこにあらゆる力が集まってせめぎあっている濃密な点(ce point intense)なのだ。大地はもはや諸々の力のうちのひとつではないし、順番とパートをもつ、フォルムを付与された実質やコード化された環境でもないだろう。大地の諸々の力にその他の実質の力、そうしたあらゆる力のせめぎあいと大地は化しており、その結果、アーティストはもはやカオスとではなく、地獄と、そして地下空間、無底と隣合っている。彼にある危険はもはや諸々の環境へと消散することではなく、大地にあまりに深くはまり込むことだ。エンペドクレス。彼はもはや創造(la Creation)とではなく、基底(le fondement)あるいはファウンデーション(la fondation)と同化しており、ファウンデーションが創造と化しているのだ。彼はもはや神ではなく、神に挑む英雄だ・・・環境(コード)のドグマティズム、カトリシズムに大地のクリティシズム、プロテスタンティズムが取って代わっている。そして、確かに、深奥にある、あるいは投影されてある濃密な点としての、ratio essendi(存在根拠)としての大地はテリトリーとの関連で常にずれた状態にあり、また、「認識(connaissance)」の条件としての、ratio cognoscendi(認識根拠)としてのテリトリーは大地との関連で常にずれた状態にある。テリトリーはドイツ的だが、大地はギリシャ的だ。そして、まさに、アーティストの境涯をロマンティクにするのはこのずれなのだ。もはやぱっくり口を開けたカオスにではなく、底なるもの(le Fond)の魅力に彼が立ち向かう限りにおいて。・・・(クラシック・アーティストが環境に棲みついていたのに対して)ロマンティク・アーティストがテリトリーを生きるのは、ただし必ずそれを失われたものとして生きるのは、そして彼自身脱テリトリー化した、環境へと追い払われた流刑者として、旅人として自らを生きるのは、このずれ、この脱コード化のせいなのだ・・・だが、同時に、その動きを強いているのはやはり大地であり、そのテリトリーの斥力を惹き起こしているのは大地の引力なのだ。・・・この観点からすれば、ロマンティシズムの根底的革新は次の点に存したと云える。フォルムに対応する実質的パート、環境に対応するコード、コードによってフォルムへと秩序立てられることになるカオス状態の素材はもはや無い。パートはむしろ表面において出来ては解ける結構の如くだ。フォルムはそれ自体連続的展開状態にあるひとつの大フォルム、すべてのパートを束ねる大地の力の集積と化す。素材はそれ自体もはや従属させ組織化すべきカオスではなく、連続的変動(une variation continue)の動きの最中にある素材だ。普遍は関係、変動と化している。素材の連続的変動とフォルムの連続的展開。諸々の結構を通じて、素材とフォルムはそうして新たな関係に入る。素材は内容の素材であることをやめて表現の素材と化し、フォルムはカオスの力を飼いならすコードであることをやめてそれ自体が力、大地の力の集合(ensemble)と化すのだ。そこには危険、狂気、限界との新たな関係が在る。ロマンティシズムはバロックなクラシシズムよりも遠くへ行った訳ではなく、別のところへ行ったのだ。別の与件および別のヴェクトルとともに。」(pp. 417-419)
テリトリーというのは環境とリズムをテリトリー化するアクトの産物なのだとD&Gは云う。環境の構成素が機能的であることをやめて表現的になるとき、テリトリーが生じる。テリトリーを規定するのは表現の素材の創発なのだ云々(pp. 386-387)。このテリトリーに関わる表現性がいわゆるロマン主義の芸術の表現性に重ね合わされている訳だ。では、ポスト・ロマン主義の芸術はどうなるのか?
「モダン・エイジというようなもの(un age moderne)が在るとすれば、それは、もちろん、コスミックの時代だ。・・・結構はもはやカオスの力に立ち向かうのではなく、もはや大地の力や民衆の力に沈潜するのではなく、コスモスの力(les forces du Cosmos)に面している。まったくこれは極端な一般論で、ほとんどヘーゲル風に、絶対精神なるもの(un Esprit absolu)を示していると見えるかも知れない。しかしながら、ことは技術に、もっぱら技術のみに関わるのであり、そうでなければならない。本質的な関係はもはや素材とフォルム(や実質と属性)の関係ではないし、また、それはフォルムの連続的展開と素材の連続的変動の間に存在するのでもない。ここではそれは資材と力materiau-forces)の直接の関係として現われる。資材、それは分子化された素材(une matiere molecularisee)であり、そのようなものとして、もはやコスモスに属すものでしかあり得ない諸々の力を「捉える(capter)」べき定めにある。相応の把握可能性の本源をフォルムに見出す素材はもはや無い。いまや大事なのは別のオーダーの力を捉える務めを負う資材を入念に仕上げることだ。視覚的資材が非視覚的な力を捉えなければならないのだ。クレーは云った。見えるようにすること、見えるものを齎したり再現するのではなく、と。この見地からすれば、フィロソフィも他の活動と同様の動きをたどっている。ロマンティク・フィロソフィが依然として素材の連続的把握可能性を保証するフォルムの総合的同一性(アプリオリな総合)に頼っていたのに対して、モダン・フィロソフィはそれ自体としては思考不能な力を捉えるために思考の資材を入念に仕上げようとしている。それはニーチェ流のフィロソフィ‐コスモス(la philosophie-Cosmos)だ。分子化された資材は、ロマンティシズムのテリトリアリティにおいてのように表現の素材を語ることなどもはやできないほどまでに、脱テリトリー化(deterritorialise)している。表現の素材は捕捉の資材に位置をあけ渡したのだ。・・・これがポスト・ロマンティシズムの転回だ。本質的なものはもはやフォルムと素材にでもテーマにでもなく、力、密度、強度(les intensites)に存在する。大地自体がひっくり返り、引力あるいは重力の純粋な資材として価値をもつことになる。おそらくこれにはセザンヌを待たねばならないだろうが、岩はもはやそれが捉える褶曲の力によってしか存在せず、風景は磁気と熱の力によってしか、林檎は発芽の力によってしか存在しなくなるのだ。非視覚的な、それにもかかわらず見えるようにされた力だ。力が必然的にコスミックになるのと資材が必然的に分子的になるのは同時になのであって、莫大な力が無限小の空間ではたらいている。問題はもはやはじまりではないし、ファウンデーションと基底でもない。それは強靭性(consistance)あるいは強化(consolidation)の問題となったのだ。無音の、不可視の、思考不能の力を捉え得るようにするには、資材を如何に強化すれば、強靭にすればいいのか?という問題に。・・・音楽は音資材を分子化するが、それによって、持続(la Duree)、強度(l'Intensite)といった無音の力を捉えることができるようになる。・・・そういう訳で、ひとは結構を出てマシーンの時代に入る。広大なメカノスフェア(mecanosphere)、捉えるべき力がコスミック化している面(plan)に。手本となるのはこの時代の曙におけるヴァレーズの歩みだろう。強靭性の音楽マシーン、(音を再生するのではない)音のマシーン、それが音資材を分子化し、原子化し、イオン化し、そしてコスモスのエナジーを捉えるのだ。このマシーンが結構をもつことになるとすれば、それはシンセサイザーだろう。ソースと処理の要素、オシレーターにジェネレーター、変換機といったモジュールを組合わせ、ミクロなインターヴァルを調整することで、シンセサイザーは音のプロセスそのものとそのプロセスの形成を聴きとれるようにし、我々を音資材を超えた更なる別のエレメントとの関係に置く。それはばらばらなものを資材に統一し、フォーミュラ(une formule)からフォーミュラへとパラメタをトランスポーズする。シンセサイザーは、その強靭性のオペレーションとともに、アプリオリ総合判断(le jugement synthetique a priori)の基底の位置を占めているのであり、そこでは総合は分子的なものとコスミックの、資材と力の総合であって、もはやフォルムと素材の、Grund(大地、底、基礎、根拠)とテリトリーの総合ではない。もはや総合判断としてのではなく、思考に旅させ、それを動きつづけるようにし、コスモスの力に変えるための思考のシンセサイザーとしてのフィロソフィ・・・」(pp. 422-424)
先に俺は「コスモスの開闢」という言葉を使ったが、ここでD&Gの云うコスモスは、古代ギリシャのコスモゴニーにおいてとは違って、カオスと対をなすものではない。(だから「cosmos」を「宇宙」と訳してもよかったのだが、「宇宙の力」などと書くと何やらいかがわしい宗教屋みたいなので、「コスモス」としておいた。)カオスからコスモスが生じるのではなく、ただコスモスが在る。コスモスの力というのは秩序をつくりもすれば壊しもするような、むしろカオティクと云ってもいいような力だろう。それを感じとれるようにすること、それがポスト・ロマン主義の芸術の仕事だという訳だ。(なお、D&Gは古典主義にロマン主義、ポスト・ロマン主義という相次ぐ時代をひとつの発展(une evolution)とも断絶した三つの構造とも解釈すべきではないと云っている。「例えば力。問題はいつでも力に関わるのものだった。カオスに属すものとして、あるいは大地の属すものとして召喚された力に。・・・とにかく云えるのは、力は、それが大地やカオスの力として現われている限り、力として直に押さえられているのではなく、素材とフォルムの関係に映されている、ということだ。大事なのは、だから、むしろあれこれの結構に現われる知覚の閾、識別可能性の閾なのだ。素材自体が分子的なものとして出現し、もはやコスモスに帰されるものでしかあり得ない純粋な力を出現させるのは、それが十分に脱テリトリー化したときだけだ。それは「いつの時にも」既にそこに在ったのだ。ただし、別の知覚的条件において。」(p. 428))
どうも俺には毎度D&Gの云うことは判るようでやっぱり判らないのだが、そもそも芸術などというようなとびきり訳の判らないものを相手にするには、そういう語り口が必要なのかも知れない。もっともらしいことを云って取澄ましてみたって何にもならないのだから。
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