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sein はリアルな述語ではない [ノート]

気が付いてみれば、もう半年も更新していなかった。が、これといって書きたいこともない。で、ここは、嘗て翻訳してみようとして中途で放り出してしまった「神の存在のオントロジカルな証明の不可能性について〔Von der Unmöglichkeit eines ontlogischen Beweises vom Dasein Gottes〕」というカントの『純粋理性批判』の一節のその訳文に手を加え披露して、ひとまずお茶を濁すことにしたい。

☆    ☆    ☆

 ここまでからして、次のことは容易に判る: 絶対必然的存在者という概念〔der Begriff eines absolut notwendigen Wesens〕は純粋な理性概念つまり単なるアイディア〔Idee〕であり、そのオブジェクティヴ・リアリティ〔objektive Realität〕は理性がそれを必要としていることによって証明されているなどという訳には到底いかず、また、このアイディアは到達不能にもかかわらず確とした完璧さをただ当てにさせるばかりであって、実のところ、悟性を新たな対象〔Gegenstände〕へと拡張することよりは、限定することに役立つ。ところが、ここに、およそ所与の存在〔Dasein〕から何か只管必然的な存在への推論が緊要で当を得ているように見えるにもかかわらず、そのような必然性の概念を懐くための悟性の条件の総てに我々は全く悖叛しているという訝しくも馬鹿げた事態が見出される。
 ひとはいつの時代にも絶対必然的存在者について語って来たが、その種のものをそもそも考えることができるのかどうか、それに如何にして、ということを理解することよりは、むしろ、その存在を証明することに骨を折って来た。ところで、それはつまりその非在〔Nichtsein〕が不可能であるような何かであるといったような、この概念の名目的説明はいかにも非常に手軽ではあるものの、しかし、それでは、ものの非在を全然思考不能と看做すのを不可能にする条件を顧慮するに、我々はちっとも悧巧にならない。我々が知りたいのは実にそうした条件、つまりは件の概念によって我々はそもそも何かを考えているのか否かということなのにだ。私にとって、無条件という言葉をもちだして、悟性が何かを必然的と看做すのに常に必要とする条件の総てを放棄することは、では無条件に必然的という概念によって私はまだ何かを考えているのか、あるいはひょっとしてもう何も考えてなどいないのか、ということを到底はっきりさせはしないのだ。
 そればかりか、ひとはおまけにこの単に出たとこ勝負で賭けられ結局すっかり周知となった概念を大量の例でもって説明することに信を置いたため、それを明瞭にするためのどんな問いももう全く無用に見えるのだった。例えば三角形は三つの角をもつといったような幾何学の命題は何れも只管必然的だ。そして、ひとは我々の悟性の領域の全く外に位置する対象について、まるで自分が件の概念でもってそれについて何を云おうとしているのかを十全に理解しているかのごとく、語るのだった。
 これまでに呈示されている例の総ては例外なくもっぱら判断に関して採られており、ものとその存在に関してではない。判断の無条件の必然性は、だが、事態の絶対的必然性ではない。判断の無条件の必然性は事態の、もしくは当の判断における述語の条件附き必然性に過ぎないのだ。先の命題は、三つの角が全然必然的だということではなく、何らかの三角形がそこにある〔da ist〕(所与である)という条件のもとでは、三つの角もまたそこに(その三角形の中に)必然的にあるということを述べているのだった。それにもかかわらず、この論理的必然性は大変な幻惑力を発揮したのであって、ひとは、ものというアプリオリな概念〔einen Begriff a priori von einem Dinge〕を懐きつつ、自らの見解のままに、存在なるもの〔das Dasein〕をもこの概念の範囲において把握することとなったあげくに、次のように確と推論し得ると思い込むのだった: この概念のオブジェクト〔Objekt〕には存在が必然的に当てはまる訳だから、つまり、私がこのものを所与(存在するもの〔existierend〕)として立てるという条件のもとでは、それの存在もまた(同一律によって)必然的に立てられることになるから、この存在者〔Wesen〕それ自体が、したがって、全然必然的である――というのは、それの存在は随意に想定される概念において、その対象を私が立てるという条件のもとでは、一緒に考えられることになる訳だから。
 私が或る同一性判断における述語を破棄し主語を保持すれば、矛盾が生じ、そこで、私は云う: この述語はこの主語に必然的に当てはまる。だが、主語を述語もろともに破棄すれば、矛盾は生じない。矛盾を来たし得るものなどもはや何もないからだ。或る三角形を立てることとなおかつその三つの角を破棄することは矛盾するが、しかし、その三つの角もろとも当の三角形を破棄することは矛盾ではない。絶対必然的存在者という概念についても、ことはまさに同様だ。それの存在を破棄するとき、君等はそのものそれ自体をそれの述語の総てとともに破棄するのであり、すると矛盾はいったい何処からやって来るというのか? 当のものは外的に必然的である訳がないから、外的には矛盾を来たすものなど何もないし、また、そのものそれ自体の破棄によって、君等はその内部の総てを同時に破棄したのだから、内的にも何もない。神は全能であるというのは必然的判断だ。神というようなものつまり無限の存在者を君等が立てるとき、無限の存在者という概念と全能という概念は一致するから、全能は破棄され得ない。君等が、しかし、神はあらぬ〔Got ist nicht〕と云うとき、全能も他のどんな神の述語も呈されてはない。そうした述語は主語もろとも総て破棄されているからであり、そして、この思考にはほんの僅かの矛盾さえ姿を現わしてはいない。
・・・・・・・
 論理的述語とリアルな述語(つまりものの規定〔der Bestimmung eines Dinges〕)の混同による幻惑がおおよそどんな諭しもうけつけないことを見出していなかったら、私はこんなくよくよとした論証など、エグジステンス〔Existenz〕という概念の厳密な規定でもって、何の躊躇もなく水の泡にしてしまうことをきっと望んでいるだろう。何であれひとが欲せば論理的述語として用いられ得るのであり、あまつさえ主語はそれ自体によって賓述され得る。論理はあらゆる内容を度外視するからだ。だが、規定は主語をなす概念の上に到来しそれを拡大する述語だ。したがって、それが以前からそこに含まれているはずはない。
 sein 〔英語ならば be、フランス語ならば être〕は、明らかに、リアルな述語つまりものの概念に加わり得るような何かのその概念ではない〔Sein ist offenbar kein reales Prädikat, d. i. ein Begriff von irgend etwas, was zu dem Begriffe eines Dinges hinzukommen könne〕。それは単にものの、もしくは或る種の規定そのものの措定だ。論理的使用においては、それは判断のコプラに過ぎない。Gott ist allmächtig 〔神は全能である〕という命題は神および全能というオブジェクトをもつふたつの概念を含んでおり、ist という一語はもうひとつの述語ではなく、ただ述語を主語との関係において立てるだけのものだ。私がいまこの主語(Gott)をそれの述語の総て――そこには全能も含まれる訳だが――とともにひとまとめにし、そして、Gott ist 〔神はある〕あるいは es ist ein Gott 〔神がある〕と云えば、私は何の新たな述語も神という概念へと立ててはおらず、ただ主語そのものを、詳しく云えば我が概念に相関する対象を、その述語の総てとともに立てているだけだ。両者は正確に同じものを含んでいるはずであり、したがって、私がそれの対象を(er ist 〔それはある〕という表現によって)只管所与として考えるということに係って、単に可能性を表現しているだけの件の概念に、さらに何かが加わることなどあり得ない。そういう訳で、現実のものは単に可能なものが含んでいる以上の何も含んではいない。・・・

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ちなみに、俺が『純粋理性批判』の特にこの一節に興味を覚えたのは、木田元の『ハイデガーの思想』(岩波新書)を読んだせいなのだった。その「カントの存在概念」という節によれば、上の文中に見られる「sein はリアルな述語ではない」というテーゼにおける「real」(ドイツ語風に云えばレアール)という語は、ラテン語の「res(物)」に由来し、カントの時代には「物の事象内容を示す」というような意味で使われていて、今日におけるような実在的という意味はもたなかったのだそうで、そのことはハイデガーが『現象学の根本問題』という講義で「明快に説き明かして」いるのだそうな。で、木田は云うのだ。「これだけでも驚くべき発見であった」と。
ほう、そうかね、てな訳で、ろくすっぽ読んだことがなかった手もちの河出書房新社版『純粋理性批判』(高峯一愚訳)を覘いてみると、だが、どうも様子が違うのだった。木田は「real」を実在的という意味に解してしまうと件のテーゼは「まったく意味がわからなくなる」と云うのだが、しかし、「リアルな述語」(河出版では「実在的述語」)は、上の通り、その都度ちゃんと「ものの規定」、「ものの概念に加わり得るような何かのその概念」と云い替えられている訳で、何が問題になっているのか、明確にとはいかないにしても、一応は理解することができるではないか。ハイデガーがどんなふうに論じているのかは知らないが、木田の言は勇み足というものだろう。(むしろ判らないのはオブジェクティヴ・リアリティという概念の方だが、それはさておき、そもそもそうして間を置かずに出て来る「リアルな述語」が二度とも律儀に云い替えられているのは、カントの時代にも、やっぱり誤解される可能性が十分あったからなのではなかろうか? )
ともあれ、そうして当たってみた河出版『純粋理性批判』の訳文というのがどうもいまひとつ要領を得ないしろもので、で、それがきっかけとなって、件の節を自分で翻訳してみようという気を止しゃあいいのに俺は起こしてしまったのだった。が、いざ手をつけてみると、カントの文章は何やら破格で、しかもごたごたしていて判りにくく、おまけに日本語にうつすのが難しくて、あれこれ苦心して訳文をひねるのがすぐに阿呆らしくなって、で、さっさと放り出してしまった、という次第なのだ。
その名残をここにこうして収めて、俺にも『純粋理性批判』をまっとうに読もうとしたことがあったのだという紀念としておく。
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