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番外駄目押し sein はリアルな述語ではない [ノート]

YouTube でジル・ドゥルーズの1980年頃の講義を聴いていたら、ノミナル・デフィニション(définition nominale)とリアル・デフィニション(définition réelle)というのが出て来た。(なお、このコンテクストでは「définition」を「定義」と訳しては不都合なので、敢えて片仮名英語にしておく。)伝統的論理学でおこなわれていた区別で、ディファインされるものの可能性については何も述べないのがノミナル、その可能性を一緒に示すのがリアル・デフィニションなのだそうな。
ドゥルーズはそれを幾何図形の例などを挙げて簡単に説明し、そしてその二通りのデフィニションという観点から資本なるものを論じていくのだが、それはさておき、俺がそこで思ったのは、こういうことを心得ている者はカントの「reales Prädikat」(「prédicat réel」、「real predicate」)に特にひっかかったりはしないだろう、ということなのだった。(ちなみに、リアル・デフィニションをもつ概念はカント流に云えばオブジェクティヴ・リアリティをもつことになる。)だが、あらためて考えてみれば、仮令それを知らなくとも、ドイツ語の「real」もフランス語の「réel」も英語の「real」も現実的というような意味のほかに実際のとか本当のというような意味をもつのだから、厳めしい哲学書に現われているという点に惑わされたりしなければ、別にひっかかるようなこともないのかも知れない。(ところが、「実在的述語」となると、困ったことに、そうはいかないわけだ。上のような「nominal」と対をなす「real」の用法は今日でも経済学に残っているようだが、日本語ではその場合の「real」の訳語は「実質」なわけで、「実在的述語」の「実在」を咄嗟に「実質」と読み換えるのは誰にでもできるようなわざではない。実際、経済学に全然興味の無い俺はながいことそれに気付かずにいたのだった。)
ところで、ハイデガーは、Sein はリアルな述語ではないというカントのテーゼの理解はカント流のリアリティという概念の理解にかかっている(Heidegger, Die Gruntprobleme der phänomenologie, Vittorio Klostermann, S. 37)、としながら、そのくせリアルという形容概念については何も語っていない。それはひとつには、前にも触れたように、メタ概念としてのリアリティが彼には見えていなかったからだろう。リアルもまたメタ概念だから盲点に入っていたわけだろう。それでも、かろうじて次のようなくだりがある。
Sein ist kein reales Prädikat bedeutet, es ist kein Prädikat von einer res〔Sein はリアルな述語でないとはそれが res にかかわる述語でないことを意味する〕(S. 44).
イタリックに注目すれば、「real」はもののとかものにかかわるというようなことを意味すると示唆されているように見えるが、一方、前にも引いたが、次のようなくだりもある。
Realität ist demnach die rechtmäßige, zur Sache, res, selbst, zu ihrem Begriffe gehörige sachhaltige, reale Bestimmung, determinatio〔リアリティは、だから、正当な、当の事物、res そのものに、その概念に適った、実のある、リアルな規定、determinatio だ〕(S. 47).
ここで形容詞、形容句はただ並べられているのではなく、二組に分けられている。そのひとつは「Bestimmung」に直接かかる「sachhaltig」と「real」の組で、これらは共に内容のあるとか実のあるというような意味で用いられているように思われる。(ちなみに、これは単なる臆測だが、元々「sachhaltig」という語は実のあるというような意味での「real」の代替としてひねりだされたものだったのではなかろうか。)結局、「real」がこのような文脈に現われるのは特に奇異なことではないため、ハイデガーとしても、やはり、その意味について格別の注意をはらう必要を覚えなかったということなのだろう。(なお、「définition réelle」の「réel」は、「nominal」を名前のというような意味に解すか名目上のというような意味に解すかに応じて、ものにかかわるというような意味なり実質的というような意味なりに自ずと解されるが、「reales Prädikat」の「real」も、俺はこの点を見逃していたのだが、それと対をなす「logisch」に「Logos」を看て取るか「Logik」を看て取るかに応じて、ものにかかわるというような意味なり実のあるというような意味なりに自ずと解される。ところが、この二系統の意味はすんなりとつながるものではないわけで、そのつながりを明らかにしておこうと試みていたならば、ハイデガーの眼にもきっとメタ概念としてのリアリティが見えて来たことだろうに。かく云う俺にも、だが、それを探る気はない。あいかわらずスコラ哲学には近付きたくないので。)
それはそうと、ハイデガーは、これも前に引いたが、「Kant spricht von der Bestimmung, die zum Was eines Dinges, zur res, hinzukommt〔カントはものの何に、res に加わる規定について語っている〕」(S. 46)と述べている。そこで、これに随って上の第一の文の「res」を「Was eines Dinges」に置き換えて、Sein はリアルな述語でないとはそれがものの何にかかわる述語でないことを意味する、と云うこともできるだろう。さて、ここからが駄目押しだが、ひょっとして、木田元はこのような路をたどり、そして第一の文の示唆どおり「real」をものの何にかかわるというようなことを意味するものと解し、さらに第二の文の「real」と並べられた「sachhaltig」に惑わされたあげく、「real」は事象内容を示すということを意味すると考えるに到ったのではなかろうか?
ともあれ、リアルな述語とはものの何にかかわる述語であるというのは別に間違いではないし、ものの何にかかわるということを事象内容を示すというように解釈するのも、胡乱ではあるものの、間違いではなかろうが、しかし、リアルな述語とは事象内容を示す述語であると云い得るからといって、それで、「real」は事象内容を示すということを意味する、とするのは牽強付会というものだ。
「牽強付会ですよ、先生。」
木田は達者で長生きしたようだが、そう突っ込んで来る者はついに現われなかったのだろうか。
最後に付け加えておけば、「現在」が現に在ることを意味しないように、「実在」も、もしかしたら、元々哲学用語としては実際に在るというようなことを意味するものとして使われだしたわけではなかったのではないか? ひょっとして、それは「real」のスコラ哲学に由来する意味をねらって造語されたものだったのではないか? そんな気がしないでもないのだが、どうだろうか。


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