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続続 sein はリアルな述語ではない [ノート]

ハイデガーはカントが「ものの概念〔Begriff eines Dinges〕について語り、「リアルなもの〔eines Realen〕」を括弧に括っている」と云っていた。その云い換えが現われる文脈は次の通り。
「Da sie aber gleichwohl doch immer synthetisch sind, so sind sie es nur subjektiv, d. i. sie fügen zu dem Begriffe eines Dinges, (Realen,) von dem sie sonst nichts sagen, die Erkenntniskraft hinzu...」(Kritik der reinen Vernunft, B286)
これを「(Realen,) 」を無視して訳出してみれば次の通り。
「とはいえ、それら〔可能、現実、必然といういわゆる様相についての原則〕はやはりつねに総合的である訳で、してみれば、それらはただサブジェクティヴに総合的であるに過ぎない、つまり、ものの概念に認識力を付け加えるばかりで、当の概念については何も語らない・・・」
ハイデガーは形容詞「real」が名詞化されたかたちの「Realen」を「Dinges」の云い換えと解している訳だが、コンマに注意してみれば、むしろそれは「realen Begriffe」の略なのではないかと思われる。(ちなみに、第一版では括弧に括られているのは「realen」だ。)つまり、様相の原則はリアルな概念に認識力を付け加えるだけだ、とカントは云っているのではないか。
それはさておき、前回に引いたあたりのあとで、ハイデガーは今度は次のように云っている。
「カントのオブジェクティヴ・リアリティという概念は、リアリティという概念とは区別されねばならず、現実性と同義だ。オブジェクティヴ・リアリティは、それによって考えられている対象に、それのオブジェクトに実現している当の事物性、つまり、現実的なものとして、現に存在するものとして経験されている存在者に顕現している事物性を意味する〔Objektive Realität heißt diejenige Sachheit, die an dem in ihr gedachten Gegenstand, ihrem Objekt, sich erfüllt, d. h. diejenige Sachheit, die sich an erfahrenen Seienden als wirklichem, als daseiendem, ausweist〕。」(Die Gruntprobleme der phänomenologie, S. 49)
これは、だが、的を逸している。カントは、絶対必然的存在者という概念のオブジェクティヴ・リアリティは理性が当の概念を必要としているということによって証明されるようなものではない、と云っていた。また、sein はリアルな述語ではないというテーゼが出て来る少し前の脚註には次のようにある。
「概念は、自己矛盾しなければ、きまって可能〔möglich〕だ。これは可能性なるものの論理的メルクマールであり、それによって当の概念の対象は nihil negativum〔ネガティヴな無〕と区別される。ただし、それにもかかわらず、それは空虚な概念であり得る。当の概念がそれによって生み出される総合のオブジェクティヴ・リアリティが別に明らかにされない場合には、だ。それは、しかし、上に示された通り、可能な経験の原理につねにもとづくのであって、分析原則(矛盾律)にではない。これは概念の可能性(論理的可能性)からものの可能性(リアルな可能性)を直ちに推論してはならないという戒めだ。」(B624)
今度は「総合のオブジェクティヴ・リアリティ」と来たが、ともあれ、「概念のオブジェクティヴ・リアリティ」は当の概念のオブジェクトの可能性を意味するものと思われる。理性が絶対必然的存在者という概念を必要としているからといって、それだけでは、そのオブジェクトの現実性はおろか、可能性すら保証され得ない、とカントは云っている訳だろう。(なお、はじめに引いたくだりからも窺えるように、カントはいわゆる事象様相(ものの性質としての様相)を認めないから、様相述語もまたリアルな述語ではないことになる。カントにおいては可能なオブジェクトは可能世界に存在するようなものではない。)
ところで、「Realität」という語は、『純粋理性批判』の本文においては、カテゴリー表(B106)に登場する以前に、まずは次のような文脈に現われる。
「我々の論究は、故に、外的に対象として我々へと現われ得るすべてのものを顧慮するに、空間のリアリティ(つまりオブジェクティヴな有効性)〔die Realität (d. i. objektive Gültigkeit)〕を示しているが、それと同時に、ものが理性によってそれ自体において、つまり我々の感性の性質をかえりみることなく検討される場合を顧慮するに、空間のアイディアリティ〔die Idealität〕をも示している。我々は、したがって、(あらゆる可能な外的経験を顧慮するに)空間のエンピリカル・リアリティ〔die empirische Realität〕を主張する。いかにも、我々は空間のトランセンデンタル・アイディアリティ〔die transzendentale Idealität〕を、つまり、我々があらゆる経験の可能性の条件を落とし、空間をものそのものの根底に横たわる何かと考えるや否や、それは無となることを主張するのではあるが。」(B44)
これに対応して、時間については、次のように述べられている。
「我々の主張は、故に、やがて我々の感覚へと齎されるであろうあらゆる対象を顧慮するに、時間のエンピリカル・リアリティ(つまりオブジェクティヴな有効性)を示している。・・・一方、我々は時間に対して、我々の感覚的直観のフォルムをかえりみることなく只管ものに条件ないしは属性としてまとわりつくような、絶対的リアリティへの一切の権利を認めない。」(B52)
そして、そうした時間のトランセンデンタル・アイディアリティとの関連で、感覚内容の述語について、
「ひとは、この場合、そうした述語が内属する現象そのものについて、それがオブジェクティヴ・リアリティをもつことを前提としている」(B53)
と云われている。また、時間についてはさらに次のように述べられている。
「時間は、たしかに、現実的な何か〔etwas Wirkliches〕、さらに云えば、内的直観の現実的フォルムである。それは、したがって、内的経験を顧慮するに、サブジェクティヴ・リアリティをもつ、つまり私は現実に時間の表象および時間における自らの規定をもつ。」(B53-54)
そして、少しあとのほうで、単なる見かけと現象の違いについて論じつつ、カントは次のように云っている。
「もし、それら〔空間と時間〕の表象フォルムにオブジェクティヴ・リアリティを付与するならば、すべてが単なる見かけに一転されることをひとは免れ得ない。」(B70)
こうした文脈に現われる「Realität」はカテゴリー表に登場するものとは別の意味で用いられていると考えるべきだろう。
憶えば、「リアルな述語」は「論理的述語」と対で登場していた。そして、上に見られる通り、「リアルな可能性」もまた「論理的可能性」と対で現われている。論理的とは、この場合、形ばかり、名ばかりということだとも云えるから、「real」は、それに対して、内容のある、実のあるというようなことを意味するものと考えられる。(なお、ハイデガーはリアルな述語に関して「sachhaltig」という表現を用いていた。それを俺はどうも意味がつかめないままに「事象内容を含む」などと訳して体裁をつくろっておいたのだが、この形容詞はものとかことがらとかを意味する名詞「Sache」に何々を含むというような意味の接尾辞「haltig」が附いたかたちなのだから、ざっくばらんに「実のある」とでも訳すべきだったかも知れない。)ラテン語の形容詞「realis」はものにかかわるというような意味をもつらしいが、どうやら、カントの「real」は、一般に、その名残をとどめつつ、内容のある、実のある、実質的というような意味で用いられているようだ。とすれば、上のような文脈に現われる「Realität」は実のあること、実質性というような意味をもつと解すことができるだろう。例えば、空間のリアリティとは空間という表象の実質性のことであり、では、その実質とは何かと云えば、それは外的対象にかかわる有効性のことである。概念のオブジェクティヴ・リアリティとはそのオブジェクトにかかわる実質性のことであり、では、その実質とは何かと云えば、そのオブジェクトの可能性のことである。そんなふうに考えてみれば、いかにも腑に落ちるではないか。
ところで、こうした「Realität」の二通りの意味は抽象名詞「Reale」を介して繋がるかに見えて、擦れ違う。まず、カントが「Reale」の名で呼んでいるのは現象において感覚内容に対応するマター(Materie)のことらしい。上の意味での形容詞「real」を抽象名詞化すれば、それは内容とか実質というような意味になるだろうから、この呼び名は一見もっともらしいものではある。そして、そうした現象のマターに対応する概念こそ「Realität」の名で呼ばれるもの、つまり――カントはこのような云い回しを敢えて避けているようだが――リアリティというカテゴリーに属す概念らしいのだ。(上に見られる感覚内容述語の現象への内属というのはこのあたりのことを云っているのだろう。)だが、このカテゴリーとしてのリアリティはカントの認識論における理論的概念である一方、もうひとつのリアリティは表象一般にかかわるものであり、謂わばメタ概念だ。同じく「Realität」によって表わされながらも、これらは論理的ステータスを異にしているのだった。(この論理的差異を見逃したために、ハイデガーは的外れな註釈をするはめになったと云えるだろう。)
さて、そんな訳で、たしかに、『純粋理性批判』においては、「real」は現実的というようなことを意味しないし、「Realität」は現実性を意味しない。そして、これらの語は、きっと、当時のドイツ語圏の学問の世界の慣用に倣うかたちで用いられているのだろう。一方、ヒュームやディドロらのテクストをちょっと覘いてみた限りでは、英語の「real」もフランス語の「réel」も現実的というような意味で、そして、「reality」と「réalité」は現実性というような意味で、それぞれ用いられているようだ。カントの同時代の英語やフランス語では、これらは既に今日におけるのとほぼ同様の一連の意味をもっていたのかも知れない。
それにしても、ラテン語の「res」に由来するこれらの語の意味の変容と拡張はいったいどういういきさつで生じたのか? それはいわゆる普遍論争にかかわりがあるのではないかという気がするのだが、スコラ哲学には近づきたくないので、この話題はもうこれで終えるとしよう。
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