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Existenz は概念の属性である(?) [ノート]

前回はカントの『純粋理性批判』から「sein はリアルな述語ではない」というテーゼが登場する辺りを引いたが、そうしたら、今度は「「存在する」は二階の述語である」というゴットロープ・フレーゲに由来するらしいテーゼが気になりだした。で、そもそもフレーゲは何処でその類のことを云っていたのか、という訳で、とりあえず飯田隆の『言語哲学大全 I 』(勁草書房)に当たってみたところ、第一章の註のなかに次のようにあった。
「「存在する」が一階の述語ではなく、二階の述語であることを示すフレーゲの議論は、『算術の基礎』に初めて接する人々の多くが大きな感銘を受けるものであると言う。(筆者も幸いにしてその例外ではなかった。)だが、残念ながら、ここでその議論を扱うことはできない。」
そこで、その『Die Grundlagen der Arithmetik』を拾い読みしだしてみたところ、前にも同じようなコースをたどって、同じようにそれを拾い読みしたことがあったのを思いだした。しかも、その折には、飯田が「フレーゲの議論」と呼んでいるものと思しき辺りを翻訳までしていたのだった。二度あることは三度あるという。またすっかり忘れて同じことを繰返すはめにならないともかぎらないので――まあ、それもわるくはないのだが――その訳文に手を加えて、ここに収めておくことにする。

☆    ☆    ☆

 §45.  これまでに確かめられたことがらおよび答のないままに留まった問をここで概観しておこう。
 数というもの〔die Zahl〕は、色や重さ、硬さなどと同様の仕方で、ものから抽象されてある訳ではない。そうした意味でのものの属性ではない。残ったのは、数の述定〔eine Zahlangabe〕によって何ごとかが叙述されるのは何についてなのか、という問だった。
 数は物理的な何かではないが、しかし、また、主観的な何かでもない。表象〔Vorstellung〕というようなものではない。
 数はものをものに付加することで生じるのではない。それに、そうした付加の都度の命名がその点に関して何かを変えることもない。
 「Vielheit」、「Menge」、「Mehrheit」といった表現〔何れも多いことを意味する〕は、その不定性の故に、数の説明に用いられるには不適格だ。
 一〔Eins〕と単位〔Einheit〕に関しては、一つのものと多くのものとの区別をことごとくぼやけさせるように見える解釈の専横を如何に制限すべきか、という問が残るのだった。
 被劃定性、不可分性、分解不能性等は、我々が「Ein〔一つのもの〕」という語によって表現していることがらのために利用可能なメルクマール〔Merkmale〕ではない。
 数えられ得るものを単位と呼ぶのであれば、単位はみな等しいという無条件の主張は誤っている。そうしたものは或る点においてはみな等しい、ということは確かに正しいが、しかし、無価値だ。数えられ得るものどもの相違は、それどころか、当の数が 1 より大きくなろうものなら、必須でさえある。
 そういう訳で、我々は相等性および区別可能性という二つの矛盾する属性を単位どもに付与せざるを得ないように見えるのだった。
 一と単位は区別されねばならない。「Eins 〔一〕」という語は、数学研究における或る一つの対象の固有名としては、複数形をとり得ない。したがって、Einsen 〔Eins の複数形〕の統括によって数を生じさせるというのは無意味だ。1 + 1 = 2 におけるプラス記号がそうした統括を表わすことなどあり得ない。
 §46.  ことを明らかにするためには、数をその元来の用法が際立つような判断のコンテクストにおいて考察するのがいいだろう。私が同一の外的現象を顧慮し同一の真理性を伴って「dies ist eine Baumgruppe 〔これは一つの木叢である〕」および「dies sind fünf Bäume 〔これは五本の木である〕」と、あるいは、「hier sind vier Compagnien 〔ここには四つの中隊が留まっている〕」および「hier sind 500 Mann 〔ここには500人いる〕」と云い得るとすれば、その際に変化するのは、個々のものでもなければ、その全体、集まりといったものでもなく、私の名指しだ。これは、だが、単に或る概念の別の概念による置換のしるしに過ぎない。そこで、前節の最初の問への答として、数の述定は何らかの概念についての何らかの叙述を含む、ということがすぐに思い浮かぶ。それが最も明瞭なのは数 0 の場合だろう。私が「die Venus hat 0 Mond 〔金星は0箇の衛星をもつ〕」と云うとき、それについて何ごとかが叙述され得るような衛星や衛星の集まりなどそこには全然ない。ところが、それによって「Venusmond 〔金星の衛星〕」という概念には一つの属性が付与される。何も包摂しないという属性が、だ。「der Wagen des Kaisers wird von vier Pferden gezogen 〔皇帝の車は四頭の馬によって牽かれる〕」と云うとき、私は「Pferd, das den Wagen des Kaisers zieht 〔皇帝の車を牽く馬〕」という概念に四という数を付与している。
 ひとは反論するかも知れない。数の述定が概念について何かそうしたことを叙述するのだとすれば、例えば「ドイツ帝国の成員」というような概念は、そのメルクマールは変わらないにもかかわらず、年々変化する属性をもつことになるだろう、と。それに対してひとは、対象はその属性を変えるが、そのことはそれを同一であると認めることを妨げるものではない、と押し返すことができる。しかも、この場合、その理由はさらに詳しく述べられ得る。「ドイツ帝国の成員」という概念は時を可変的成分として含んでいる。つまり、数学的に表現させてもらうならば、それは時の関数なのだ。ひとは「a はドイツ帝国の成員である」に代えて「a はドイツ帝国に属している」と云うことができるが、これは今現在の時点に係っている。したがって、当の概念そのものに既に流動的なところがある訳だ。一方、「ベルリン時1883年初頭におけるドイツ帝国の成員」という概念には永久不変に同一の数が与えられる。
 §47.  数の述定が我々の解釈には依存しない実際のことがらを表現するということを驚異と受けとるのは、概念を表象と同様の主観的なものと看做す者だけだ。しかし、そうした見解は誤っている。例えば、物体という概念を重さをもつものという概念の下位に置くなり、鯨という概念を哺乳動物という概念の下位に置くなりするとき、我々はそれによって客観的なことがらを主張している。ところが、もし概念が主観的だとしたら、或る概念が別の概念の下位に位置することもまた、それらの間の関係として、表象間の関係と同様、主観的なものだということになるだろう。たしかに、
「alle Wallfische sind Säugethiere 〔総ての鯨は哺乳動物である〕」
という命題は一見すると概念ではなく動物を扱っているように見えるが、しかし、いったいどの動物が話題になっているのかと問えば、ひとは何かを一つだけ示すことができない。たとえ一頭の鯨が目の前にいたとしても、この命題はその鯨についてはやはり何も主張してはいない。ひとは、そこから、目の前にいるその動物は哺乳動物である、とは推論し得ない。それは一頭の鯨である〔es ein Wallfisch ist〕という、件の命題がそれに関しては何の含みももたない命題を取り入れることなしには、だ。そもそも或る対象について語ることは、それをどうにかして表示するなり名指すなりすることなしには、不可能だ。「Wallfisch 〔鯨〕」という語は、だが、何の個体も名指してはいない。もし、ひとが、話題になっているのは、たしかにひとつの明確な対象ではないが、しかし、或る不定の対象なのだ、と応じるならば、私は云おう。「不定の対象」とは「概念」の別の表現でしかなく、しかも、不都合な、矛盾に充ちたものだ、と。たとえ件の命題がもっぱら個々の動物を観察することによってのみ正当化され得るにしても、そうした正当化は当の命題の内容については何も証しはしない。それは何を扱っているのか、という問に関しては、それが真であるか否かや、どんな根拠から我々はそれを真であると看做すのかはどうでもいいことだ。ところが、概念が客観的であれば、それについての叙述もまた実際のことがらを含み得る。
 §48.  同一のものにまちまちの数が与えられるようだという、上の幾つかの例に生じた見かけは、その際に対象が数の担い手として仮定された、ということで説明がつく。我々がその真の担い手、概念を正当な地位に就けるや否や、数はその勢力範囲において色と同様の排他性を顕わにする。
 ここで、また、何故にひとが数をものからの抽象によって獲得しようとするに到るのかも判る。ひとが抽象によって獲るのは概念であり、そのときそこにひとは数を見出す。そうして、抽象は実際にしばしば数の判断の形成に先行する。その取り違えは、板壁と藁葺屋根を伴う木骨造りでもって洩れやすい煙出しをもつ家屋を建てることで、引火しやすさという概念が獲られる、と云い張る場合に同断だ。
 概念の結集力は総合的統覚の統合力をはるかに超えている。統覚によってはドイツ帝国の成員達をひとつの全体へと束ねることなど可能ではないだろうが、しかし、ひとは彼等を「ドイツ帝国の成員」という概念のもとに置き、数えることができる。
 ここで、また、数の広範な適用可能性も説明がつくことになる。実際、外的現象とともに内的現象について、空間的かつ時間的な現象とともに非空間的かつ非時間的な現象について、どうして同じことが叙述され得るのかは不可解だ。ところが、数の述定においてはそうしたことは全然おこなわれはしないのだ。数は、ただ、外的現象と内的現象が、空間的現象と時間的現象が、非空間的現象と非時間的現象がそのもとに置かれている概念に付与されるに過ぎない。
 §49.  我々の見解への裏書の一つは、スピノザのもとに見出される。彼は次のように云う。「ものは単にその存在〔Existenz〕への顧慮によって一つのとか唯一のとかと云われるのであって、その本質〔Essenz〕への顧慮によってではない、と私は答えよう。我々がものどもを数のもとに表象するのは、もっぱらそれらが何らかの共通の尺度を宛がわれた後においてだからだ。例えば、一箇のセステルティウスと一箇のインペリアルを手に持っている者は、そのセステルティウスとインペリアルのそれぞれに硬貨もしくはコインという同じ名称を負わせることができなければ、箇数二〔die Zweizahl〕を思ったりはしないだろう。それができれば、彼は自分が二つの硬貨もしくはコインをもっていることを肯定し得る。彼はそのセステルティウスばかりでなくそのインペリアルをもまたコインという名称によって表示する訳だから。」ところが、「このことからして、ものが一つのとか唯一のとかと云われるのは、もっぱらそれに(既述のとおり)合致する何か別のものが表象された後においてであることは明らかだ」と続けるとき、そして、我々は神の本質について何の抽象的概念も形成し得ないのだから、本来の意味においては神を一つのとか唯一のとか云うことはできない、と云うとき、概念は多くの対象からの直接の抽象によってしか獲得され得ないと考える点において、彼は間違っている。ひとはメルクマールから概念へと達することもできるのであって、しかも、そのとき当の概念に帰属するものは何も無いということも可能なのだ。もし、そうしたことが生じないとしたら、ひとは決して存在なるものを否定し得ないだろうし、それとともに存在の肯定もまたその内容を失うことだろう。
 §50.  E. シュレーダーは、一つのものの頻出〔Häufigkeit〕が語られ得るのであれば、そうしたものの名称は常にクラス名〔ein Gattungsname〕、一般概念語〔ein allgemeines BegriffsWort〕(notio communis)でなければならない、ということを強調している。「つまり、ひとがひとつの対象を完全に――その総ての属性および関係とともに――捕捉するや否や、それは世界に唯一の身となり、もはや同類をもたないだろう。また、その対象の名称は固有名(nomen proprium)の性格を帯びるだろうし、当の対象は繰り返し出現するものとは考えられ得ない。このことは、だが、単に具体的な対象にばかりでなく、そもそもあらゆるものについて成り立つ。たとえそれの表象が抽象によって成ろうとも、ただその表象だけが当のものを完全に特定されたものとするに十分であるようなエレメントを包含している限りは、だ。 ・ ・ ・ 後者」(数えのオブジェクトとなること)「は何らかのものにおいて、そして、そのものがそれらによって自余の総てのものと区別されるようなそれに固有のメルクマールや関係の幾つかをひとが考慮の外におくなり度外視するなりする限りにおいて、初めて可能となる。それによって、そのとき初めて、ものの名称は多くのものに適用可能な概念となる。」
 §51.  この説明における真実は胡乱で紛らわしい云い回しで表現されているため、整理と吟味が必要だ。まず、一般概念語をものの名称と呼ぶのは不適切だ。それによって、まるで数がものの属性であるかのような見かけが生じる。一般概念語はまさに概念を表示するのだ。それは、ただ定冠詞もしくは指示代名詞を伴ってのみ、ものの固有名として通用するが、ただし、それとともに概念語として通用することをやめる。ものの名称は固有名だ。一つの対象が繰り返し出現するのではなく、多くの対象が一つの概念に帰属する。概念はただそれに帰属するものどもからの抽象によってのみ獲得される訳ではないということは、既にスピノザに反対して述べた。ここで私は、概念はただ一つのものしかそれに帰属しない――したがって、そのものは当の概念によって完全に特定されている――ことで概念であることをやめたりはしない、ということを付け加えよう。そうした概念(例えば、地球の衛星〔Begleiter der Erde〕)にまさに与えられるのが、2 や 3 と同じ意味において数である数 1 だ。概念の場合、それに何かが帰属するのか否か、そして何がそれに帰属するのかが常に問われる。固有名の場合、そうした問は無意味だ。言語が例えば「Mond 〔月〕」という固有名を概念語として〔衛星という意味で〕用い、その逆もあるということに、ひとは欺かれぬようにせねばならない。区別はそれでもやはり存続するのだ。不定冠詞を伴って、もしくは冠詞なしに複数形で使われるや否や、語は概念語となる。
 §52.  数は概念に付与されるという見解へのもう一つの裏書は、ひとが zehn Mann 〔十人〕とか、vier Mark 〔四マルク〕、drei Fass 〔三ファス、三樽〕と云う場合のドイツ語の用語法〔何れにおいても名詞が単数形で単位として用いられている〕に見出され得る。単数形はここではものではなく概念が考えられていることを暗示しているのかも知れない。この表現法の長所は数 0 において殊に際立つ。こうしたケースを除けば、いかにも言語は概念ではなく対象に数を付与する。ひとは、「Gewicht der Ballen 〔梱どもの重さ〕」と云うのと同様に、「Zahl der Ballen 〔梱どもの数〕」と云うのだ。そうして、ひとは本当は概念について何かを叙述するつもりが、外見上は対象について語っている。こうした用語法はことを紛糾させる。「vier edle Rosse 〔四頭の純血種の乗用馬〕」という表現は、「edel 〔純血種の〕」が「Ross 〔乗用馬〕」を規定するのと同様に、「vier 〔四〕」が「edles Ross 〔純血種の乗用馬〕」をさらに規定するかのような見かけを呼び起こす。しかし、「edel」だけがそうしたメルクマールなのであって、「vier」という語によって、我々は概念について何ごとかを叙述している。
 §53.  概念について叙述される属性とは、もちろん、当の概念を構成するメルクマールのことではない、と私は解する。メルクマールは当の概念に帰属するものの属性であって、その概念の、ではない。例えば、「直角〔rechtwinklig〕」は「直角三角形〔rechtwinkliges Dreieck〕」という概念の属性ではない。一方、直角正等辺三角形は存在しない〔es kein rechtwinkliges, geradliniges, gleichseitiges Dreieck gebe〕という命題は「直角正等辺三角形」という概念の一属性を述べており、この概念には箇数零〔die Nullzahl〕が付与される。
 この点で存在なるもの〔die Existenz〕は数に似ている。存在の肯定は箇数零の否定に他ならないのだ。存在は概念の属性であるが故に、神の存在のオントロジカルな証明〔der ontologische Beweis von der Existenz Gottes〕はその目的を果たさない。存在と同じく唯一性もまた「神」という概念のメルクマールではない。唯一性がこの概念の定義に使われ得ないことは、ひとが家屋の建築に際してその丈夫さとか広さ、快適さを石材やモルタルや角材と諸共に用いることなどできないのと同断だ。しかしながら、何かが或る概念の属性であるということから、それが当の概念から、つまりはそのメルクマールから推論されることはあり得ないと結論することは、一般に許されない。場合によっては、それは可能だ。ひとが建築用石材の種類から建物の耐久性について間々結論をくだし得るのと同様に、だ。したがって、概念のメルクマールから唯一性なり存在なりが結論されることは決してあり得ない、とするのは云い過ぎというものだろう。ただ、それは、ひとが概念のメルクマールを当の概念に帰属する対象に属性として付与するようには、そう直接には、為され得ないのだ。
 存在と唯一性がいつか概念のメルクマールとなり得る、ということを否認するのもまた誤りだろう。それらは、単に、ひとが言語に則してそれらをそのメルクマールと看做そうとするような、そうした概念の当のメルクマールなどではないまでだ。例えば、ただ一つの対象だけがそれに帰属するような概念の総てをひとつの概念のもとに集めれば、唯一性はこの概念のメルクマールだ。この概念には例えば「地球の衛星〔Erdmond〕」という概念が帰属することになるのであって、そう呼ばれる天体が、ではない。そうして、ひとは概念を高次の〔höhern〕、謂わば第二次の〔zweiter Ordnung〕概念に帰属させ得る。ただし、この関係を従属関係と混同してはならない。
 §54.  いまや単位を満足のいくように説明することが可能だろう。E. シュレーダーは先の教科書の7ページで「そうしたクラス名あるいは概念は既述の方法で形成された数の呼称と呼ばれ、その単位の本質を成す」と云っている。
 実際、或る概念を、それに与えられる箇数〔Anzahl〕との係りで、単位と呼ぶのは、極めて適切なことではなかろうか。そのとき、それは周囲から分離されていて分割不能である、という単位についての叙述に我々は意味を見出すことができる。数を付与される当の概念は一般にそれに帰属するものを明確な仕方で劃すからだ。「Buchstabe des Wortes Zahl 〔Zahl という語を成す文字〕」という概念は Z を a から劃し、a を h から劃し、等々。「Silbe des Wortes Zahl 〔Zahl という語のもつシラブル〕」という概念は当の語をひとつの全体として、そして、そのどんな部分ももはや「Silbe des Wortes Zahl」という概念には帰属しないという意味で、分割不能なものとして、際立たせる。総ての概念がそのようである訳ではない。我々は、例えば、赤という概念に帰属するものを様々な仕方で分割することができる。分割された部分が当の概念に帰属しなくなることなしに、だ。そうした概念にはどんな有限数も与えられることはない。そこで、単位の被劃定性と分割不能性についての命題というものが、次のように述べられ得る。
 それに帰属するものを明確に劃し、どんな恣意的な分割も許さないような概念だけが、有限の箇数に係る単位であり得る。
 分割不能性はここで特別の意義〔Bedeutung〕をもっていることが判るだろう。
 いまや、どうして相等性は単位の区別可能性によって邪魔され得ないのか、という問に答えるのは簡単だ。「単位〔Einheit〕」という語はここで二重の意味で用いられている。単位どもは、上で説明されたこの語の意義において、等しい。「Jupiter hat vier Monde 〔木星は四つの衛星をもつ〕」という命題においては、単位は「Jupitersmond 〔木星の衛星〕」だ。第一衛星と同様、第二衛星も、第三衛星も、第四衛星も、この概念に帰属する。したがって、ひとは次のように云うことができる。第一衛星が関聯づけられる単位は第二衛星が関聯づけられる単位に等しい云々。その点で、我々は相等性を手にしている。一方、単位どもの区別可能性を主張するとき、ひとはそれによって数えられるものどもの区別可能性を考えているのだ。

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フレーゲは、この『算術の基礎』(1884年)に先立つ『概念記法』(1879年)において、ファンクションとアーギュメントという道具立てでもって文を分析する方法を呈示し、いわゆる量化理論を展開することで、論理学を新たな段階へと齎したのだった。そこで定式化された論理のエッセンスは、今日では「古典論理」と呼ばれ、スタンダードとなっている訳だが、その古典論理においては、あらゆるものはかくかくである――今日一般的な論理記号を使って書けば、∀x(x はかくかくである)――ということと、かくかくでないものは存在しない――¬∃x¬(x はかくかくである)――ということは同等であり、また、あらゆるものがかくかくでない訳ではない――¬∀x¬(x はかくかくである)――ということと、かくかくであるものが存在する――∃x(x はかくかくである)――ということも同等だ。したがって、古典論理の体系を考える場合、「あらゆる」に関わる普遍量化か「存在」に関わる存在量化かのどちらか一方を採れば、他方は無しに済ますことが可能であり、実際、フレーゲの概念記法体系には、いわゆる存在量化子に相当するものは具わっていない。その点からすれば、「存在の肯定は箇数零の否定に他ならない」という彼の言葉は、「かくかくであるものが存在する」を、かくかくであるものの箇数は零でない、ということによってあらためて定義しているものと解釈され得る。
ところで、フレーゲが唯一性について云っていることを存在について当てはめてみれば、次のようになる: それに帰属する対象の箇数が零でない概念の総てをひとつの概念のもとに集めれば、存在はこの概念のメルクマールである。この云い回しは、「存在は概念の属性である」という云いぐさともども、いかにも胡乱というものだが、それはさておき、このアイディアは、1891年の『関数と概念』を経て、1893年の『算術の基本法則』第一巻において、その体系に即して具体化されることとなる。そこでは、今日一般的な記号法で書けば、「∀xΦx」という形をした、いわゆる自由変数を含まない表現は、「Φ」によって表わされる一変数の関数――対象を真理値(真か偽)に対応づける関数――を真理値に対応づける或る第二水準の関数(Funktion zweiter Stufe)の値を表わすものとされ、また、「¬∀x¬Φx」というような表現は、「Φ」によって表わされる一変数関数と「¬」によって表わされている真理値を反転する関数との合成関数 ¬Φ についての件の第二水準の関数の値(真か偽)が関数 ¬ によって反転された値を表わすものとされる。(「∀xΦx」によって表わされる真理値は、あらゆる対象について関数 Φ の値が真であれば、真であり、そうでなければ、偽だ。また、「¬∀x¬Φx」によって表わされる真理値は、あらゆる対象について関数 ¬Φ の値が真(つまり Φ の値が偽)であれば、偽であり、そうでなければ、真だ。)そこで、「Φ」という説明の便宜上の不定の表現を今度は空位を示す目印と看做せば、「∀xΦx」および「¬∀x¬Φx」はそれぞれに或る第二水準の関数を表わしているものと解釈され得る。その意味での関数 ¬∀x¬Φx は、それに帰属する対象の箇数が零でない概念の総てを、そしてそれらだけを包摂する概念に相当する、と云えるだろう。実際、フレーゲは第一水準の一変数関数を「第一水準の概念」、第二水準の一変数関数を「第二水準の概念」と呼んでいるのであり、上で彼が「概念」と云っているのも、あるいは、そうした関数に類するもののことなのかも知れない。
ついでに、「「存在する」は二階の述語である」というテーゼについて。この胡乱な云いぐさは、上のような、『算術の基本法則』の体系に即して呈示されたアイディアを、量化理論的語法で補強された自然言語に適用することから捻り出された、と云えるだろう。それを飯田の『言語哲学大全 I 』の第一章に則って見ておこう。
そこでは、「述語」という語は次のような意味で用いられている。
「いくつかの空所をもつ以外は文と同じであり、それらの空所を名前で填めれば文となる形式を「述語」と呼ぶことにしよう。」(ここで「名前」と云われているのは何らかの個体を指す表現のことだと解していいだろう。また、空所はそのような名前によってのみ充填され得るものとしなければならない。それから、「いくつかの空所」とは、単に複数の空所のことではなく、いくつかのグループに分けられた複数の空所のことであり、同じグループの空所は同じ名前によって一斉に充填されるのだと考えるべきだろう。ちなみに、このグループ分けされた空所をもつ形式というアイディアは『概念記法』のファンクションとアーギュメントという道具立てがイントロダクション用に簡便化されたものだと云える。)
例えば――飯田がこうした例を用いている訳ではないが――「ルート2 は分数では表現され得ない数である」という文から「ルート2」という一つの数を指す表現を除外すれば、「・・・は分数では表現され得ない数である」という述語が得られる。(このように、文からその一部を、単なる部分としてではなく、空所をもつ形式として切り出すところが味噌だ。)ところで、「分数では表現され得ない数が存在する」という文は、「ある x について、x は分数では表現され得ない数である」と書き換えられ得る。(ここに量化理論的語法が登場している訳だ。)そこで、そこから件の述語を除外した「ある x について、x ・・・」という形式を考えれば、その空所は、空所を一つもつ(つまり空所のグループを一つだけもつ)あらゆる述語によって、充填され得るものと看做され得る。(この「ある x について、x ・・・」という形式は、それに帰属する対象の箇数が零でない概念の総てを、そしてそれらだけを包摂する概念を表わす、と云えるだろう。)そうした意味で、「ある x について、x ・・・」を「二階の述語」と呼ぶことができるだろうと飯田は云う。そして、さらに、この二階の述語が「存在を表現するものである」と看做され得ることから、ひとつの「教訓」が引き出され得る、と彼は云うのだ。
「すなわち、「存在する」は、述語ではあるが、「ねたむ」や「カラスである」のような、個体について言われる一階の述語ではなく、こうした一階の述語について言われる二階の述語なのである。」(冒頭に引いた註はここに付されている。)
「存在は概念の属性である」と同様、「「存在する」は二階の述語である」という云いぐさもまた、こうしたコンテクストから切り離されれば、混乱の種でしかないだろう。要注意。

さて、カント、フレーゲとくれば、次はクワインの段だろうが、さしあたり俺にはそれに関して書くべきことはない。
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